こんにちは、なんだろなアメリカのキョウコ@NandaroAmericaです。
アメリカにおける日系人の歴史を学ぶ時、移民の人数、労働、差別、強制収容の歴史と並んで重要なのが、コミュニティ形成です。
日本人移民は、アメリカに渡った後、どのように助け合ったのか。
日本人街はどのように生まれたのか。
なぜ日本語学校、教会、寺院、日本人会、県人会、商店、新聞が重要だったのか。
他の移民集団のように大きな民族コミュニティを長く維持したのか。
それとも、世代が進むにつれて分散し、同化していったのか。
日系人の歴史を見ると、日本人移民は異国で孤立していたわけではありません。彼らは、親戚、同郷者、職場仲間、宗教団体、日本人会、県人会、商業ネットワーク、日本語学校、新聞、農業組合、教会、寺院などを通じて、生活を支え合いました。
しかし一方で、日系コミュニティは、アメリカ社会の中で非常に複雑な立場にもありました。
生活のためには日本語と日本文化を守る必要がある。
子どもにはアメリカ社会で成功してほしい。
同郷者で助け合う必要がある。
しかし、閉鎖的に見られると排日感情を刺激する。
日本人としてのつながりを守りたい。
しかし、戦争時にはそのつながりが疑いの目で見られる。
こうした緊張の中で、日系人コミュニティは形成され、発展し、戦争で破壊され、戦後に再建され、さらに現代では多様化してきました。
この記事では、アメリカにおける日系人の歴史シリーズ第6回として、日本人の異国でのコミュニティ形成に見られる特徴を、中立的に整理します。
扱う時代は、主に1880年代後半から戦後、そして現代の日系・在米日本人コミュニティまでです。
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日本人移民はまず「生活のため」に集まった
日本人移民のコミュニティ形成は、最初から文化保存や民族意識だけを目的にしたものではありませんでした。
まず必要だったのは、生きるためのつながりでした。
仕事を探す。
住む場所を探す。
英語がわからない中で情報を得る。
病気や怪我の時に助けてもらう。
送金や手紙の方法を知る。
結婚相手や家族の呼び寄せについて相談する。
差別やトラブルに対処する。
子どもの教育について考える。
異国で生活を始めた移民にとって、同じ言語を話し、同じ出身地や文化を持つ人々の存在は非常に重要でした。
Library of Congressは、アメリカ本土の日本人移民が太平洋岸の町やサンフランシスコの日本人街などに広がり、農業、製材所、鉱山、商店、レストラン、小さなホテルなどで働いたと説明しています。こうした労働と生活の場が、日本人移民の集住や地域形成の基盤になりました。(loc.gov)
つまり、日系コミュニティは、まず生活インフラでした。そこに、商業、宗教、教育、文化、相互扶助が重なっていきました。
同郷ネットワークと県人会
日本人移民のコミュニティ形成で大きな役割を持ったのが、同郷ネットワークです。
初期の日本人移民は、日本全国から均等に出たわけではありません。広島、山口、熊本、福岡など、特定の地域から多くの移民が出ました。
Denshoは、一世移民の多くが農民層出身であり、広島、山口、熊本、福岡の四県から多く来たと説明しています。(densho.org)同じ県、同じ郡、同じ村の出身者が、アメリカやハワイで互いを頼りました。これが県人会や同郷団体の基盤になります。
同郷ネットワークには、いくつかの機能がありました。
新しく来た人に仕事を紹介する。
住む場所を紹介する。
結婚や家族呼び寄せの情報を共有する。
病気や事故の時に助け合う。
葬儀や法事を支える。
日本の家族との連絡や送金を助ける。
地域の問題に共同で対応する。
移民にとって、同郷者は単なる友人ではありません。異国で生きるための保険のような存在でした。これは、他の移民集団にも見られる特徴ですが、日本人移民の場合、県や村単位のつながりが強く働いた点が特徴です。
日本人街 Nihonmachi Japantown の形成
日本人移民が増えると、都市部には日本人街、Nihonmachi、Japantownが形成されました。代表的なものに、サンフランシスコ、ロサンゼルスのリトルトーキョー、サンノゼ、シアトル、ポートランドなどがあります。
National Park Serviceは、ロサンゼルスのLittle Tokyoについて、1885年に元船員の浜之助 Charles Hama ShigetaがEast First StreetにKame Restaurantを開いたことを地域の始まりとして説明しています。1800年代末には、ほぼ男性だった日本人移民がEast First Street周辺の下宿に集まり始めました。(nps.gov)
サンフランシスコのJapantownについて、Advisory Council on Historic Preservationは、1906年の大地震と火災後、日本人コミュニティがWestern Additionへ移動し、1907年以降の写真花嫁の到着によって家庭が形成され、二世が生まれたと説明しています。(achp.gov)
日本人街には、さまざまな機能がありました。
日本食料品店。
旅館や下宿。
レストラン。
理髪店。
写真館。
新聞社。
銀行や送金業務。
医師や歯科医。
教会や寺院。
日本語学校。
映画館や娯楽施設。
職業紹介。
法律や生活相談。
日本人街は、単なる「日本風の商業地区」ではありませんでした。英語が不十分な一世が生活するための社会的インフラであり、新しく来た移民がアメリカ生活に入る入口であり、家族と地域を支える場でした。
商業と自営業の役割
日系コミュニティでは、商業と自営業が重要な役割を持ちました。日本人移民は、農業労働者や賃金労働者として働くだけでなく、次第に小商店、レストラン、ホテル、ランドリー、写真館、食料品店、農産物流通、庭師業などにも進出しました。
これらの事業は、単に収入源であるだけではありません。
コミュニティの人々が集まる場所。
日本語で相談できる場所。
情報が流れる場所。
仕事の紹介が行われる場所。
日本の商品や食文化を維持する場所。
でもありました。
移民コミュニティにおいて、商店は生活の中心になります。食材を買うだけでなく、求人情報を聞く、手紙の書き方を聞く、送金の相談をする、故郷の話をする、子どもの学校の話をする。商業は、経済と文化と情報の交差点でした。
宗教施設は精神的・社会的支柱だった
教会や寺院も、日系人コミュニティ形成に大きな役割を果たしました。仏教寺院、キリスト教会、日系教会は、信仰の場であると同時に、教育、福祉、交流、相談、儀礼の場でもありました。
結婚式。
葬儀。
法事。
日曜学校。
日本語教育。
地域行事。
子どもの集まり。
高齢者の支援。
新移民の相談。
こうした活動を通じて、宗教施設は日系人の生活を支えました。
Denshoは、一世が次世代を教育するために教会や日本語学校を建て、敵対的な国で互いを支えるために事業組合を作ったと説明しています。(densho.org)特に一世にとって、宗教施設は日本語で話せる場であり、文化的な安心感を得る場でした。しかし、第二次世界大戦が始まると、日本語、宗教、日本とのつながりを持つ指導者たちは疑いの対象にもなりました。つまり、コミュニティを支えた施設が、戦時には監視と摘発の対象になったのです。これは日系人コミュニティ形成の大きな矛盾です。
日本語学校と二世教育
日系コミュニティで特に重要だったのが、日本語学校です。一世の親たちは、アメリカ生まれの二世に日本語と日本文化を伝えようとしました。
日本語学校は、言語教育だけでなく、礼儀、家族観、勤勉さ、日本文化、宗教行事、地域のつながりを伝える役割を持ちました。
家庭では日本語、学校では英語という環境で育つ二世にとって、日本語学校は親世代との文化的な橋渡しでもありました。
しかし、日本語学校はアメリカ社会から疑いの目で見られることもありました。
「日本への忠誠を教えているのではないか」
「同化を妨げているのではないか」
「アメリカ市民である二世を日本化しているのではないか」
このような疑念は、排日運動や戦時中の監視と結びついていきます。
Denshoの用語解説は、二世はアメリカで日本人移民の親から生まれたアメリカ市民で、多くは日本に一度も行ったことがなかったと説明しています。一方、一世の親は差別的法律によって帰化できなかったとも説明しています。(densho.org)
この親子関係は、日系コミュニティの特徴をよく表しています。
親は日本で生まれ、日本語と日本文化を持つ。
子はアメリカで生まれ、アメリカ市民で英語社会に育つ。
家庭と外の世界で文化が違う。
親は日本文化を守りたい。
子はアメリカ社会で生きたい。
この緊張の中で、日系コミュニティは世代をつないでいきました。
相互扶助と組織化
日系コミュニティのもう一つの特徴は、相互扶助と組織化です。一世たちは、差別と法的制限の中で生きるために、互いに助け合う仕組みを作りました。
県人会。
日本人会。
農業組合。
商業組合。
宗教団体。
学校組織。
新聞社。
職業紹介。
互助団体。
こうした組織は、移民が孤立しないための仕組みでした。医療や福祉が十分でない時代に、病気や事故、失業、葬儀、生活困窮に対応するには、コミュニティ内部の助け合いが必要でした。また、差別的な法律や排日運動に対抗するためにも、組織が必要でした。
個人では弱くても、団体として声を上げることができる。
情報を共有する。
弁護士や通訳を探す。
行政に対応する。
学校や土地問題に対応する。
新聞で意見を伝える。
コミュニティ組織は、生活と政治の両方に関わっていました。
日本人コミュニティは閉鎖的だったのか
日系人コミュニティを考える時、「日本人は閉鎖的に集まっていたのか」という問いが出てきます。この問いには慎重に答える必要があります。確かに、日系人は日本人街、日本語学校、県人会、教会、寺院、商店を作りました。しかし、それは必ずしも「アメリカ社会と関わりたくなかったから」ではありません。
むしろ、多くの場合、アメリカ社会から排除されたり、言語・法律・経済的な壁があったりしたため、生活のために自分たちの支援網を作る必要がありました。
家を借りにくい。
土地を持てない。
職業が限られる。
差別を受ける。
英語が不十分。
法制度が不利。
市民権を得られない。
このような状況で、同じ背景を持つ人々と助け合うのは自然なことでした。つまり、日系コミュニティは「内向きな性格」だけで説明できません。それは、排除された環境の中で作られた防衛的・実用的な生活基盤でもありました。
同化と分散が進みやすかった特徴
一方で、日系人コミュニティには、世代が進むと分散しやすい特徴もありました。二世、三世になると、英語が第一言語になり、学校や職場を通じてアメリカ社会との関係が強くなります。
高等教育を受ける。
専門職に就く。
軍務に就く。
戦後に西海岸以外へ移る。
国際結婚が増える。
日本語を話さなくなる。
民族街から郊外へ移る。
こうして、日系人は日本人街だけにとどまらず、広くアメリカ社会へ分散していきました。Library of Congressは、戦後の日系人コミュニティ再建について、1952年のMcCarran-Walter Actが1924年移民法を取り消し、日本からの移民を再び合法化し、日本人移民がアメリカ市民になる道も開いたと説明しています。(loc.gov)
戦後の日系人社会は、戦前のような密集した日本人街を完全に復元したわけではありません。強制収容によって財産や地域基盤を失ったこと、戦後の再定住、教育・職業移動、郊外化、国際結婚などによって、日系コミュニティは分散していきました。この点は、日系人社会の大きな特徴です。
一世の時代には、生活のために集まる。
二世・三世以降は、アメリカ社会に広がっていく。
戦争と収容が、その流れをさらに加速させる。
このように見ることができます。
戦争によってコミュニティは破壊された
日系コミュニティ形成を語る上で、第二次世界大戦中の強制収容は避けられません。戦前に築かれた日本人街、農業コミュニティ、宗教施設、学校、商店、団体は、強制退去によって大きな打撃を受けました。
National Park Serviceは、1942年のExecutive Order 9066により、西海岸の日系人が強制的に家と地域から離れさせられ、約110,000人が退去させられ、その三分の二はアメリカ市民だったと説明しています。(nps.gov)
強制収容は、単に個人を拘束しただけではありません。地域社会そのものを解体しました。
商店は閉じられ
農場は失われ
日本語学校は停止し
教会や寺院の活動は中断
新聞や団体は機能を失い
家族は財産を処分
隣人関係は断ち切られました。
コミュニティとは、人々が集まって作った時間と信頼の蓄積です。強制収容は、その蓄積を国家の命令によって破壊した出来事でした。
収容所内でもコミュニティは再形成された
しかし、日系人は収容所の中でも、完全に無力だったわけではありません。限られた環境の中で、学校、新聞、宗教活動、スポーツ、文化活動、庭づくり、手芸、農作業、自治的な活動を作りました。これは、収容所生活を肯定することではありません。むしろ、人々が不当に自由を奪われても、生活と共同体を作ろうとしたことを示しています。
収容所の中では、出身地、世代、政治的立場、忠誠登録への回答などによって対立もありました。日系コミュニティは一枚岩ではありません。一世、二世、帰米二世、仏教徒、キリスト教徒、農業者、都市出身者、日本語の強い人、英語の強い人、アメリカへの忠誠を強く示す人、政府に抗議する人。さまざまな立場がありました。コミュニティとは、助け合いだけでなく、葛藤を含むものです。この点も、日系人史を正確に見る上で重要です。
戦後の日系コミュニティ再建
戦後、日系人は収容所から出て、生活を再建しました。しかし、戦前のコミュニティがそのまま戻ったわけではありません。
財産を失った人。
農地を失った人。
店を失った人。
西海岸に戻れなかった人。
中西部や東部へ移った人。
教育や職業を通じて別の地域へ行った人。
多くの人々が新しい場所で生活を作りました。
Library of Congressは、戦後のコミュニティ再建について、1948年のJapanese American Evacuation Claims Actが強制退去による財産損失への補償を意図したものだったが不十分であり、1952年のMcCarran-Walter Actが日本からの移民を再び合法化し、日本人移民に市民権への道を開いたと説明しています。(loc.gov)
戦後の日系コミュニティは、再建と同時に変化しました。
日系人街の一部は弱体化
郊外化が進み
日本語能力は世代とともに低下
国際結婚が増え
日系人会や文化団体が歴史保存の役割を持つようになる
戦時収容の記憶を語り継ぐ活動が始まる
日系コミュニティの役割は、生活の相互扶助から、文化継承、歴史保存、権利回復、アイデンティティ形成へと広がっていきました。
現代の日系・在米日本人コミュニティの特徴
現代のアメリカには、いくつかの異なる日系・日本人コミュニティがあります。
戦前移民の子孫である日系アメリカ人コミュニティ。
戦後に渡米した日本人とその家族。
企業駐在員とその家族。
留学生。
国際結婚で移住した人。
研究者、専門職、アーティスト。
日本語継承を考える家庭。
日本文化に関心を持つ非日系の人々。
これらは重なることもありますが、完全に同じではありません。戦前からの日系アメリカ人コミュニティは、英語中心で、世代も進んでいます。日本語を話さない人も多く、日本文化との関係も家庭によって違います。一方、現代の日本からの移住者は、日本語を第一言語とし、日本の教育や文化を直接持っています。
この二つは、同じ「日本ルーツ」でも、歴史的経験、言語、文化、社会的立場が違います。
Japanese American National Museumは、日系アメリカ人の歴史をアメリカの民族的・文化的多様性の一部として記録し、共有することを使命としていると説明しています。(janm.org)
現代の日系コミュニティは、単なる「日本人の集まり」ではありません。移民史、戦争の記憶、文化継承、言語喪失、再学習、アジア系アメリカ人としての連帯、現代日本人移住者との接点など、複数の層を持っています。
日本人コミュニティ形成の特徴を整理する
ここまでを見ると、日本人の異国でのコミュニティ形成には、いくつかの特徴があります。
第一に、生活防衛型のコミュニティでした。英語が不十分で、法的にも不利で、差別がある中で、仕事、住居、医療、教育、宗教、情報を支えるために集まりました。
第二に、同郷ネットワークが強く働きました。県人会、同郷者、親戚、村のつながりが、移民の流れと生活支援を作りました。
第三に、日本人街は商業と情報の中心でした。食料品店、旅館、新聞、レストラン、写真館、宗教施設、日本語学校が生活を支えました。
第四に、教育と文化継承を重視しました。日本語学校、礼儀、家庭教育、宗教行事を通じて、次世代に日本文化を伝えようとしました。
第五に、コミュニティは差別への対応として発達しました。排除されたからこそ、内側の支援網が必要になりました。
第六に、世代が進むと同化と分散が進みました。二世以降は英語化し、教育や職業を通じて広いアメリカ社会へ出ていきました。
第七に、戦争と強制収容によって戦前のコミュニティは大きく破壊されました。しかし、戦後には文化継承と歴史保存の形で再建されました。
まとめ
日本人移民は、アメリカで孤立して生活していたわけではありません。
彼らは、同郷者、県人会、日本人会、商店、教会、寺院、日本語学校、新聞、農業組合、事業組合、日本人街を通じて、異国での生活を支えるコミュニティを作りました。
その特徴は、まず生活のための実用的なネットワークだったことです。
仕事を探す。
住まいを探す。
情報を得る。
病気や事故に対応する。
子どもを教育する。
文化を守る。
差別に対応する。
こうした必要から、日系コミュニティは形成されました。
National Park Serviceは、Little Tokyoが1885年にKame Restaurantの開業から始まり、1800年代末には日本人移民がEast First Street周辺の下宿に集まったと説明しています。(nps.gov)
Denshoは、一世が次世代を教育するために教会や日本語学校を作り、敵対的な国で互いを支えるために事業組合を作ったと説明しています。(densho.org)
日系コミュニティは、文化保存の場であると同時に、差別の中で生きるための防衛的な生活基盤でもありました。
しかし、世代が進むと、日系人は英語化し、教育や職業を通じてアメリカ社会へ広がり、コミュニティは分散していきました。
さらに、第二次世界大戦中の強制退去と収容は、戦前の日系コミュニティを大きく破壊しました。National Park Serviceは、約110,000人の日系人が家と地域から離れることを強制され、その三分の二はアメリカ市民だったと説明しています。(nps.gov)
戦後、日系コミュニティは再建されましたが、戦前と同じ形には戻りませんでした。
その後の日系コミュニティは、生活支援だけでなく、歴史保存、文化継承、強制収容の記憶、アジア系アメリカ人としての権利意識、現代の日本人移住者とのつながりなど、複数の役割を持つようになりました。
日本人の異国でのコミュニティ形成は、単に「日本人同士で固まった」という話ではありません。
それは、差別と制限の中で生活を守るための知恵であり、次世代を育てるための仕組みであり、同時に、アメリカ社会へ広がっていく過程でもありました。
参考資料・公式リンク
Library of Congress
Japanese | Immigration and Relocation in U.S. History
The U.S. Mainland: Growth and Resistance
Rebuilding a Community
National Park Service
Little Tokyo Historic District
Japanese Immigration to the United States
Japanese American Confinement during World War II
Densho
Pioneer Generation: Remembering the Issei
Terminology
Reclaiming Japanese American Culture and Language after Decades of Erasure
Densho Encyclopedia
Japanese American National Museum
JANM History
Discover Nikkei
Advisory Council on Historic Preservation
San Francisco Japantown, California

