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日本人はなぜ海外に出た新移民に複雑な視線を向けるのか|社会心理学・メディア論・在外日本人同士の比較から考える

米文化
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こんにちは、なんだろなアメリカのキョウコ@NandaroAmericaです。

海外で暮らす日本人の中には、日本国内から向けられる視線に、少し複雑なものを感じたことがある人がいるかもしれません。

海外に住んでいると言うと、羨ましがられることもあります。一方で、どこか冷ややかに見られることもあります。

自由でいいね
好きで出たんでしょ
海外にいるからって偉そう
日本の悪口ばかり言わないで
そんなに海外がいいなら帰ってこなければいい
日本でうまくいかなかったから出たんでしょう
変わった人だから日本でうまくやっていくのは難しいんだろう

このような言葉は、はっきり言われることもあれば、会話の空気の中ににじむこともあります。もちろん、日本に住む人が皆そうだという話ではありません。家族や友人を温かく応援してくれる人もいます。海外在住者の経験を尊重してくれる人もたくさんいます。それでも、日本社会には、自ら海外へ出た人、とくに現代の新移民に対して、どこか複雑な視線が向けられることがあります。

さらに、これは日本国内と海外在住者の間だけで起きる現象ではありません。在外日本人同士の間でも、似たような比較や摩擦が起きます。

駐在さんは会社が家賃や保険を出してくれていいよね
永住組は現地で自由にやっているけれど変わった人が多い
国際結婚組は大変そうだけど現地に根を張れている
留学組は若くて可能性があって羨ましい
現地採用組は自力で頑張っていてすごいけれど不安定そう
日本に帰る人と帰らない人では価値観が違う

こうした見方も、個人の性格だけではなく、社会心理学的な比較、集団意識、階層意識、メディアやSNSによる見え方の影響として考えることができます。

この記事では、海外新移民への複雑な視線を、社会心理学、心理学、社会学、メディア論、政治的言説の視点から整理します。

理論としては、Henri TajfelとJohn Turnerの社会的アイデンティティ理論、Leon Festingerの社会的比較理論、W. G. RuncimanやHeather J. Smith、Thomas Pettigrewらの相対的剥奪理論、Abraham Tesserの自己評価維持モデル、Susan Fiskeらのステレオタイプ内容モデル、Robert Entmanのフレーミング理論、Maxwell McCombsとDonald Shawのアジェンダ設定理論、Elisabeth Noelle-Neumannの沈黙の螺旋、George Gerbnerの培養理論などを参照しながら考えます。

海外に出た人。
日本に残って暮らしている人。
在外日本人同士の関係に疲れたことがある人。
日本社会の同調圧力に息苦しさを感じる人。
海外で生き直そうとしている人。
日本を外から見る視点に関心がある人。

そのような方に向けて、できるだけ丁寧に整理してみたいと思います。

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  1. 現代の新移民は、戦前移民とは異なる存在である
  2. 日本社会では、集団から外れることが意味を持ちやすい
  3. 社会的アイデンティティ理論で見る内集団と外集団
  4. 社会的比較理論で見る、羨望と不安
  5. 自己評価維持モデルで見る、近い相手ほど苦しくなる理由
  6. 相対的剥奪理論で見る、不公平感の正体
  7. ステレオタイプ内容モデルで見る、羨望と冷笑
  8. 嫉妬は、しばしば道徳的批判に変換される
  9. 日本を出た人の語りは、時に批判として受け取られる
  10. 日本に残る人にも、防衛反応がある
  11. 在外日本人同士にも、階層化とラベリングが起きる
  12. メディアは、外へ出る人をどう描いてきたか
  13. アジェンダ設定と培養理論で見る、何を重要だと思うか
  14. 沈黙の螺旋と、語りにくい経験
  15. SNS時代は、誤解を増幅する
  16. 新移民の語りには、自己回復の側面がある
  17. それでも、語り方には配慮が必要である
  18. 在外同士の分断を減らすには、相手の見えない負担を見ること
  19. 日本社会は海外在住者を社会的資源として見てもよい
  20. 対立ではなく、二つの場所から日本を見る
  21. 海外へ出た人を、他の国ではどう見ているのか
    1. アメリカでは「出ること」そのものが建国神話に近い
    2. ヨーロッパでは、国によって「出ること」の意味が違う
    3. 中欧・東欧では「頭脳流出」と「残された社会」の痛みがある
    4. 中東・アフリカ・南アジアでは「出稼ぎ」「送金」「成功」として見られる場合もある
    5. 日本の「出て行った」感覚は、島国性だけでは説明できない
  22. なぜ「出て行く人」への攻撃は起きるのか
    1. Hirschmanの Exit, Voice, Loyalty で考える
    2. 「出た人」は、残った社会の問題を可視化してしまう
    3. 僻みや攻撃は、しばしば「傷ついた誇り」から生まれる
    4. 集団が抑圧的であるほど、外へ出た人が目立つ
  23. 他国にも「出て行った人」をネガティブに見る文化はあるのか
    1. 理由は国によって違う
    2. 頭脳流出として叩かれる国
    3. 亡命者や反体制派として疑われる国
    4. 文化を失う人として心配される国
  24. 日本社会の課題は「出て行った人」を責めることではなく、なぜ出たのかを考えること
    1. 出て行く人は、社会の異常を知らせるセンサーでもある
    2. 攻撃は、内省を避けるための近道になる
    3. 「出て行った人」を社会改善のヒントとして見る
  25. 日本のしんどさをどう言語化するか
    1. 抑圧された集団は、横に攻撃が向かいやすい
    2. ポジティブな社会変革に向かいにくい理由
    3. 海外へ出ることは、裏切りではなく社会の診断結果でもある
    4. 日本だけが特殊なのではないが、日本には日本特有のきつさがある
  26. まとめ
  27. 参考理論・研究者・関連資料

現代の新移民は、戦前移民とは異なる存在である

まず、現代の日本人新移民は、戦前の日本人移民とはかなり性格が違います。戦前の日本人移民は、ハワイの砂糖きびプランテーションやアメリカ西海岸の農業労働、出稼ぎ、家族の経済的支援などと深く結びついていました。

一方、現代の日本からの移住者は、留学、国際結婚、企業駐在、研究、専門職、芸術活動、起業、子どもの教育、ライフスタイル、自己実現など、移住理由が非常に多様です。

外務省の海外在留邦人数調査統計によると、2024年10月1日現在の海外在留邦人総数は129万3,097人で、そのうち米国在留者は41万3,380人です。つまり、海外で暮らす日本人は、もはや珍しい例外ではなく、日本社会の外側に広がる大きな人口でもあります。

ただし、現代の新移民には一つの特徴があります。それは、単に海外に憧れた人だけではなく、日本社会の中で生きづらさを感じ、別の社会で自分の人生を組み立てようとした人が少なくないという点です。

日本が嫌いだから出た、という単純な話ではありません。むしろ、日本で育ち、日本語で考え、日本文化を持ちながら、日本の学校、職場、家族観、性別役割、年齢規範、同調圧力、評価のされ方に違和感を持ち、別の環境で自分を作り直そうとした人がいる。

この点を理解しないと、海外新移民と日本国内の人々との心理的な摩擦は見えにくくなります。

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日本社会では、集団から外れることが意味を持ちやすい

社会学的に見ると、日本社会は、個人よりも関係性や集団内の調和を重視する傾向が強い社会として説明されることが多くあります。

もちろん、日本社会も多様であり、すべての日本人が同じ価値観を持つわけではありません。しかし、学校、会社、地域、家庭の中で、空気を読むこと、周囲に合わせること、迷惑をかけないこと、和を乱さないことが重視されやすいのは、多くの人が実感するところではないでしょうか。

日本文化を論じる際には、内と外、うちとそと、集団内と集団外の区別が重要な概念として扱われることがあります。このうちそとの意識は、言語表現や社会関係の中にも現れるとされます。

海外へ出るという行為は、物理的には国境を越えることですが、社会的には標準的な人生コースから外れる行為として見られることがあります。日本で進学し、日本で就職し、日本で結婚し、日本で家を持ち、日本で親の近くに住む。こうした人生モデルが強い社会では、海外移住は、本人が思っている以上に逸脱として解釈されることがあります。ここでいう逸脱は、多数派の期待されたコースから外れる、という意味です。

海外に出た人は、ただ別の場所に住んでいるだけではありません。日本社会の見えない規範から、一度距離を取った人として見られることがあります。そこに、尊敬、羨望、不安、疑念、批判が混ざります。

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社会的アイデンティティ理論で見る内集団と外集団

社会心理学には、内集団と外集団という考え方があります。Henri TajfelとJohn Turnerが発展させた社会的アイデンティティ理論では、人は自分が所属する集団を通じて自己概念を作り、内集団と外集団の区別が態度や評価に影響すると説明されます。

日本国内で暮らす人にとって、海外へ出た日本人は不思議な存在です。同じ日本人でありながら、完全には同じ場所にいない。

日本語を話す。
日本文化を知っている。
でも日本の外で暮らしている。
日本を外側から見る。
日本の常識を相対化する。
時に日本社会を批判する。

このような存在は、内集団でもあり、少し外集団でもあります。ここに複雑さがあります。完全な外国人であれば、違う文化の人として処理できます。しかし、海外在住日本人は、同じ日本人でありながら、日本社会の外に出た人です。そのため、日本国内の人から見ると、仲間なのに、なぜ外からこちらを見るのか、という感覚が生まれることがあります。

この微妙な位置が、海外新移民への視線を複雑にします。そして、この内集団と外集団の境界は、在外日本人同士の間にも生まれます。

駐在組。
永住組。
国際結婚組。
留学組。
現地採用組。
研究者。
アーティスト。
帰国予定の人。
帰国しない人。

同じ海外在住日本人であっても、生活条件や移住理由が違うと、相手を自分とは違う集団として見やすくなります。つまり、海外に出た後も、日本人同士の間で新しい内集団と外集団が作られるのです。

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社会的比較理論で見る、羨望と不安

心理学者Leon Festingerは、1954年に社会的比較理論を提唱しました。この理論では、人は自分の能力、意見、価値を評価する時、客観的な基準がない場合に他者と比較する傾向があるとされます。上方比較は、自分よりうまくいっているように見える人との比較で、向上心を刺激する一方、自尊感情を脅かすこともあります。

海外に出た人は、日本に残った人にとって、自分が選ばなかった別の人生を可視化する存在になることがあります。

本当は留学したかった。
本当は海外で働いてみたかった。
本当は日本の会社を辞めたかった。
本当は親や世間の期待から離れたかった。
本当は自分の人生をもっと自由に選びたかった。

しかし、実際にはそうしなかった、あるいはできなかった。その時、海外移住者を見ると、心の中で比較が起きます。海外に出た人が輝いて見える。苦労しながらも、自分の人生を作っているように見える。

その姿は、時に見る側の心を刺激します。その刺激が、素直な応援ではなく、冷笑や批判として出ることがあります。

この仕組みは、在外日本人同士でも同じです。永住組から見ると、駐在員家庭は、会社が家賃や医療保険、引っ越し、子どもの学校、車、帰国便などを支えてくれているように見え、羨ましく感じることがあります。

一方、駐在組から見ると、永住組は現地に根を張り、自分のペースで暮らしているように見えるかもしれません。

留学生から見ると、永住権を持っている人は安定して見える。

永住組から見ると、留学生は若く、可能性があり、身軽に見える。

現地採用組から見ると、駐在組は守られているように見える。

駐在組から見ると、現地採用組は自由に見えるが、不安定にも見える。

このような比較は、単なる性格の問題ではありません。

生活条件が違う人同士が同じ在外日本人という近いカテゴリーにいるため、社会的比較が起きやすいのです。

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自己評価維持モデルで見る、近い相手ほど苦しくなる理由

Abraham Tesserの自己評価維持モデル、Self-Evaluation Maintenance Modelは、近い他者の成功が、自分にとって重要な領域で起きると、自尊感情を脅かすことがあると説明します。つまり、遠い他人の成功より、自分に近い人の成功の方が心に刺さりやすいのです。

これは、海外新移民への視線を考える時にとても役立ちます。

日本にいる人にとって、海外で自己実現している日本人は、完全な他人ではありません。

同じ日本語を話し、同じ日本社会で育ち、似た教育を受けた人です。

だからこそ、その人が海外で楽しそうにしていると、自分も本当はできたかもしれない、という感覚が生まれます。

この近さが、比較を強くします。

在外日本人同士でも同じです。

同じ国に住んでいる。
同じ日本人である。
同じ移民である。
同じ地域の日本人会や補習校にいる。
でも、生活条件が違う。

この時、相手の成功や安定は、遠い有名人の成功よりも、自分の自己評価を揺さぶりやすい。だから、駐在組は守られている、永住組は変わっている、現地採用組は不安定、国際結婚組は現地に入れていいよね、というような言葉が出ることがあります。

それは相手の実態を正確に見ているというより、自分の不安を処理するためのラベルである場合があります。

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相対的剥奪理論で見る、不公平感の正体

W. G. Runcimanが整理した相対的剥奪理論、そしてHeather J. SmithとThomas Pettigrewらによる相対的剥奪研究では、人は客観的にどれだけ貧しいかだけではなく、他者や基準と比較して自分が不利だと感じる時に、不満や怒りを抱くと説明されます。SmithとPettigrewらのレビューでは、相対的剥奪は怒りや憤りを伴う比較判断であり、集団間態度や集合行動、個人の行動にも関わるとされています。

海外新移民に対する風当たりの一部は、この相対的剥奪感で説明できます。日本に残っている人が客観的に不幸とは限りません。それでも、海外にいる人がより自由に見え、より自分らしく見え、より選択肢を持っているように見える時、自分が相対的に奪われているように感じることがあります。

私は我慢している。
あの人は自由にしている。
私は親や会社や世間の期待から離れられない。
あの人は海外に出て自分の人生を作っている。
私はここで現実を背負っている。
あの人は外から日本を批判している。

この感覚は、客観的な事実とは別に、主観的な不公平感として生まれます。

在外日本人同士でも同じです。

駐在組は会社に守られているように見える。
永住組はビザや生活を自力で切り開いて自由に見える。
国際結婚組は現地に家族基盤があって安定して見える。
留学組は若さと未来があるように見える。
日本から来たばかりの人は新鮮な可能性を持っているように見える。

このような比較は、実際の苦労を見えなくします。

駐在組には駐在組の苦労があります。

数年で帰国する不安。
配偶者のキャリア中断。
子どもの学校変更。
会社の命令で動く不自由さ。
現地社会に深く入れない孤独。

永住組には永住組の苦労があります。

ビザ、医療、老後、税金、家、子どもの教育、親の介護、仕事、差別、孤独を自分で抱える現実があります。

それでも、相対的剥奪感が働くと、相手の保障や自由だけが大きく見え、自分の不利だけが強く感じられます。

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ステレオタイプ内容モデルで見る、羨望と冷笑

Susan Fiske、Amy Cuddy、Peter Glick、Jun Xuらのステレオタイプ内容モデルでは、集団へのステレオタイプは主に暖かさと有能さの二軸で形成されるとされます。高い地位にあると見なされる集団は有能だが冷たいと見られやすく、競争相手と見なされる集団には羨望や反感が向きやすいと説明されます。

海外新移民は、時にこの羨望型のステレオタイプに置かれます。

英語ができる。
海外で暮らしている。
自由そう。
国際的。
自分の人生を選んでいる。
でも、少し冷たい。
日本を見下していそう。
自分だけ良いところへ行ったように見える。

このように、有能だが暖かくない、という見方をされることがあります。

すると、尊敬と反感が同時に向けられます。

すごいけれど、好きではない。

羨ましいけれど、認めたくない。

こうした複雑な感情は、海外在住者への冷ややかな視線として表れます。

在外日本人同士でも、似たステレオタイプが作られます。

駐在組は経済的に守られているが現地に根づいていない
永住組は自由だが癖が強い
国際結婚組は現地に入れているが日本人社会から距離がある
現地採用組はたくましいが不安定
留学生は可能性があるが現実を知らない

こうしたラベルは、相手を理解するための近道に見えますが、実際には相手の複雑さを削ります。

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嫉妬は、しばしば道徳的批判に変換される

嫉妬という感情は、本人にとって認めにくいものです。

羨ましいと言うのは、自分の不足や未練を認めることにもなります。

そのため、嫉妬はしばしば道徳的批判に変換されます。

海外で自由にしていて羨ましい、とは言わない。

代わりに、こう言う。

日本を捨てた。
海外かぶれ。
日本を見下している。
自分だけ自由になろうとしている。
いい気になっている。
現実を知らない。
日本の悪口ばかり言う。

これは、嫉妬を道徳の言葉に置き換える行為です。

社会心理学的に見ると、人は自分の感情を正当化するために、相手の行動を道徳的に問題化することがあります。

海外移住者への批判が、実際の発言内容より強くなる時、そこには相手が何を言ったかだけでなく、相手の存在が自分に何を感じさせたかが関わっている可能性があります。

もちろん、海外在住者の側にも問題がないわけではありません。

海外生活を過度に美化したり、日本社会を雑に見下したり、国内にいる人々の現実を理解しないまま語ったりすれば、反発を招くのは自然です。

ただ、それを差し引いても、海外新移民に対する風当たりには、その人の存在そのものが、日本社会の標準コースを相対化してしまうという構造的な問題があるように思います。

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日本を出た人の語りは、時に批判として受け取られる

海外に出た人は、日本を外から見るようになります。

外に出ると、比較が生まれます。

日本の良さも見える。
日本の不自由さも見える。
アメリカの良さも見える。
アメリカの乱暴さも見える。
自分が当たり前だと思っていた価値観が、当たり前ではなかったと気づく。

この比較の中で、日本社会について語ると、日本国内の人からは批判として受け取られることがあります。

たとえば、

日本の学校は同調圧力が強い。
日本の会社は個人を潰すことがある。
日本では女性に求められる役割が重い。
日本では意見を言う人が浮きやすい。
日本では家族や世間体から逃げにくい。

海外在住者がこう語ると、日本に住む人は、自分たちの社会を外から裁かれていると感じることがあります。

しかし、海外に出た人にとって、その語りは単なる批評ではなく、自己理解のプロセスであることもあります。

日本でなぜ苦しかったのか。

自分はなぜ息がしにくかったのか。

なぜ海外に出て少し楽になったのか。

なぜ日本に戻ると身体が緊張するのか。

こうした問いを言語化しているのです。

つまり、海外新移民の日本社会批判は、しばしば社会批評と個人の傷の回復が重なったものです。

受け取る側がこれをすべて日本の悪口として処理してしまうと、その人がどのような経緯で日本を出たのか、何を回復しようとしているのかが見えなくなります。

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日本に残る人にも、防衛反応がある

一方で、日本にいる人の反応も、単純に否定するべきではありません。

日本に残って暮らしている人も、日々の生活の中で多くの負担を抱えています。

仕事。
子育て。
介護。
親族関係。
教育費。
職場の人間関係。
地域社会。
老後不安。
経済不安。
性別役割。
世間体。

その中でなんとか生活している人にとって、海外在住者が日本社会の息苦しさを語ると、自分の生活そのものを否定されたように感じることがあります。

私はここで生きているのに

私は逃げずに頑張っているのに

外に出た人に、日本を語られたくない

この反応は、社会心理学的には自己防衛として理解できます。

人は、自分の選択や生活環境を否定されると、自分自身を否定されたように感じます。

日本に残った人は、自分の選択を守ろうとします。

海外に出た人も、自分の選択を守ろうとします。

この二つの自己防衛がぶつかると、会話は対立的になります。つまり、海外新移民と日本国内の人々の摩擦は、どちらか一方が悪いというより、互いの人生防衛がぶつかっていると見ることができます。

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在外日本人同士にも、階層化とラベリングが起きる

ここで、在外日本人同士の関係も見ておきたいです。

海外に出れば、日本社会のしがらみから完全に自由になるかというと、必ずしもそうではありません。

むしろ、海外の日本人社会の中に、日本的な比較、階層化、ラベリングが再生産されることがあります。

駐在員家庭。
永住者。
国際結婚家庭。
留学生。
現地採用。
研究者。
起業家。
アーティスト。
日本語補習校に通わせる家庭。
通わせない家庭。
帰国予定の家庭。
帰国しない家庭。

これらは、それぞれ生活条件が違います。

駐在員家庭は、会社の保障があり、住居や保険が手厚く見えることがあります。

しかし、任期があり、会社都合で生活が動き、配偶者や子どもが自分の意思と関係なく移動する大変さがあります。

永住組は、自由で現地に根づいているように見えます。

しかし、家、仕事、医療、老後、税金、子どもの教育、親の介護、法的手続き、差別を自力で抱えます。

国際結婚組は、現地に家族基盤があるように見えます。

しかし、言語、親族関係、離婚、親権、DV、孤立、文化差の問題を抱えることもあります。

留学組は若くて可能性があるように見えます。

しかし、ビザ、学費、就職、孤独、将来不安があります。

現地採用組は自立していてたくましく見えます。

しかし、雇用不安、保険、キャリアの伸び悩み、ステータス維持の不安を抱えることがあります。

このように、どの立場にも強みと弱みがあります。

にもかかわらず、人は他者の保障や自由だけを見て、自分の不足を感じやすい。

ここにも、社会的比較、相対的剥奪、内集団外集団、ステレオタイプ化が働いています。

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メディアは、外へ出る人をどう描いてきたか

メディアの影響も無視できません。日本のメディアでは、海外在住者はしばしば二極化して描かれます。一方では、成功者として描かれます。

海外で活躍する日本人。
グローバル人材。
英語で働く人。
世界で認められた人。
海外で夢を叶えた人。

もう一方では、変わった人、失敗した人、帰れなくなった人、日本に馴染めなかった人として描かれることもあります。つまり、海外在住者は、すごい人か、変わった人かのどちらかに寄りやすい。普通に悩みながら暮らしている生活者としては描かれにくいのです。

Robert Entmanのフレーミング理論では、メディアや言説は、現実の一部を選び、目立たせ、問題の定義、原因の解釈、道徳的評価、解決策の提示を行うと説明されます。海外在住者を自由に海外で楽しむ人として枠づければ、羨望や反発が生まれやすくなります。

日本を捨てた人として枠づければ、道徳的批判が強まります。日本と海外をつなぐ人として枠づければ、社会的資源として見えます。つまり、海外新移民への視線は、本人の行動だけでなく、メディアが作る語りの枠組みにも影響されます。

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アジェンダ設定と培養理論で見る、何を重要だと思うか

Maxwell McCombsとDonald Shawのアジェンダ設定理論では、メディアは人々に何を考えるべきかを直接命令するというより、何について考えるべきかを強く方向づけるとされます。1972年の研究では、メディアが強調する争点と有権者が重要だと考える争点との関連が示されました。

また、George Gerbnerの培養理論では、長期的なメディア接触が、人々の社会現実の認識を形作るとされます。もともとはテレビ研究から発展した理論ですが、現在では広くメディアが現実認識を形成する仕組みを考える際に参照されます。

海外在住者についても同じことが言えます。メディアが海外成功者ばかりを取り上げれば、海外在住者は成功者として見られやすくなります。海外生活の失敗談やトラブルばかりを取り上げれば、海外に出る人は危なっかしい人として見られやすくなります。

SNSがキラキラした海外生活を可視化すれば、海外在住者は自由で恵まれた人として見られやすくなります。つまり、実際の海外生活が多様であっても、メディアやSNSの見え方が一部の印象を強めるのです。

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沈黙の螺旋と、語りにくい経験

Elisabeth Noelle-Neumannの沈黙の螺旋理論では、人は自分の意見が少数派だと感じるほど、孤立を恐れて発言を控える傾向があるとされます。

この理論は、海外新移民の語りにも当てはまります。

海外で苦労している人は、言いにくいことがあります。

弱音を言うと、好きで行ったんでしょと言われるかもしれない。

日本社会の息苦しさを語ると、日本の悪口と言われるかもしれない。

駐在組の大変さを言うと、でも会社が出してくれるんでしょと言われるかもしれない。

永住組の不安を言うと、自分で選んだんでしょと言われるかもしれない。

国際結婚の苦労を言うと、外国人と結婚したんだから仕方ないと言われるかもしれない。

その結果、当事者は黙ることがあります。

黙る人が増えると、表に出る声は、成功談、自慢、怒り、極端な批判、過激な言葉に偏りやすくなります。

すると、海外在住者の実像はさらに歪みます。

普通に悩んでいる人の声が見えにくくなり、キラキラか炎上かのどちらかだけが目立つ。

これも、海外新移民をめぐる誤解を増やす要因です。

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SNS時代は、誤解を増幅する

SNSは、海外新移民への視線をさらに複雑にしています。

海外在住者の生活は、写真や短い文章で見えます。

海外の家。
学校行事。
旅行。
カフェ。
多文化の友人。
英語での仕事。
ホリデー。
広い空。

こうしたものは、見栄えがします。

しかし、海外生活の大変さは見えにくい。

ビザの不安。
医療費の請求書。
学校との交渉。
差別された時の恐怖。
英語で戦う疲労。
孤独。
親の介護への罪悪感。
日本に帰れない事情。
子どもの日本語維持の苦労。

SNSでは、海外生活が自由で楽しそうに切り取られやすくなります。

その一方で、海外在住者が苦労を語ると、好きで行ったのにと言われる。

楽しそうにすると、自慢と言われる。

苦しそうにすると、自己責任と言われる。

これは、SNS時代の移民経験の難しさです。

また、SNSでは怒りや不満を伴う投稿が拡散しやすい傾向があります。オンライン上の情報拡散に関する研究では、怒りや恐怖などの感情的要素が共有や反応を促すことが示されています。

つまり、海外在住者についても、穏やかな経験談より、対立的な発言や強い批判の方が目立ちやすい。

その結果、海外在住者は日本を見下している、日本にいる人は海外組を妬んでいる、駐在は恵まれている、永住組は変わっている、といった極端な構図が生まれやすくなります。

実際には、多くの人はもっと複雑で、もっと静かに悩んでいます。

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新移民の語りには、自己回復の側面がある

自ら日本を出た現代の新移民には、日本での生活に息苦しさやトラウマを持っている人が少なくありません。

ここでいうトラウマは、必ずしも医学的診断としてのPTSDだけを意味しません。

もっと広く、学校、家庭、職場、性別役割、同調圧力、評価、世間体の中で受けた深い傷や長期的なストレスを指しています。

日本の中で、自分の意見を言えなかった。
自分の個性を出すと浮いた。
女性として期待される役割が重かった。
母親として責められた。
会社で心身をすり減らした。
家庭の期待から逃げられなかった。
学校で同調できず苦しかった。
自分の才能や関心が理解されなかった。

こうした人にとって、海外移住は単なる地理的移動ではありません。

自分をもう一度組み立てる行為です。

その人が海外から日本社会について語る時、それは日本批判であると同時に、自分がなぜ苦しかったのかを理解する作業でもあります。

この視点はとても大切です。

海外新移民の語りをすべて日本の悪口として処理してしまうと、その人がどのような経緯で日本を出たのか、何を回復しようとしているのかが見えなくなります。

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それでも、語り方には配慮が必要である

ただし、海外に出た側にも配慮は必要です。日本社会で傷ついた経験があるからといって、日本国内で暮らす人々を一括りにして責めてしまうと、対話は難しくなります。

日本にいる人も、同じ社会の中で苦労して生きています。

日本に残る選択をした人。
家族の事情で出られなかった人。
日本で子育てをしている人。
介護をしている人。
働き続けている人。
地域社会を支えている人。

その人たちに向かって、日本は遅れている、日本人はおかしい、海外の方が上、とだけ言ってしまうと、相手は防衛的になります。

重要なのは、日本社会を批判する時に、自分の経験として語ることです。

私はこう感じた。
私はこう苦しかった。
私にはこの環境が合わなかった。
外に出て初めてこう見えた。
でも日本にも良さがある。
日本で生きている人の苦労もある。

こうした語り方であれば、批判ではなく経験の共有になります。

海外新移民の視点は、日本社会を外から照らす大切な視点です。

しかし、それを橋にするか、刃にするかは、語り方によって変わります。

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在外同士の分断を減らすには、相手の見えない負担を見ること

在外日本人同士の摩擦を減らすためには、相手の見えている部分だけで判断しないことが大切です。

駐在組の保障だけを見ない。

永住組の自由だけを見ない。

国際結婚組の現地基盤だけを見ない。

留学組の若さだけを見ない。

現地採用組のたくましさだけを見ない。

どの立場にも、見える利点と見えない負担があります。

社会的比較理論や相対的剥奪理論が示すように、人は自分に近い他者と比較しやすく、その比較によって不満や羨望を抱くことがあります。

しかし、比較は現実の一部しか見せません。

相手の保障に見えるものは、相手の不自由でもあるかもしれません。

相手の自由に見えるものは、相手の孤独でもあるかもしれません。

相手の安定に見えるものは、相手の重い責任でもあるかもしれません。

在外日本人同士がもう少し優しくなるためには、カテゴリーで相手を見るのではなく、その人がどのような制約の中で暮らしているのかを見ることが必要だと思います。

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日本社会は海外在住者を社会的資源として見てもよい

日本社会にとって、海外在住者は貴重な存在です。外から日本を見る視点を持っています。

日本の教育、医療、労働、子育て、政治、地域社会、ジェンダー、移民政策、福祉、介護を、別の社会と比較できます。

これは、日本国内だけでは得にくい視点です。海外在住者は、日本を捨てた人ではありません。日本社会を外から観察する人でもあります。日本で育ったからこそ見えることがある。外に出たからこそ見えることがある。その両方を持つ人々です。

このような人たちを海外かぶれや日本批判者として遠ざけるのは、社会的にはもったいないことです。むしろ、海外在住者の経験は、日本社会の制度改善、教育、子育て、働き方、多文化理解、国際発信に活かせるはずです。

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対立ではなく、二つの場所から日本を見る

最終的に、この問題は日本にいる人と海外に出た人の対立として見るより、二つの場所から日本を見る問題として捉えた方がよいと思います。

日本の中にいるから見える現実

日本の外に出たから見える現実

内側から見る日本。
外側から見る日本。
どちらも一部であり、どちらも完全ではありません。

海外新移民は、日本社会から距離を取ったことで、息がしやすくなった人もいます。一方、日本に残った人は、日本社会の中で、日々の現実を支えながら生きています。そのどちらも、簡単ではありません。

だからこそ、必要なのは、相手の人生を軽く扱わないことです。海外に出た人に対して、好きで出たんでしょ、と言わない。日本に残った人に対して、なぜ外に出ないの、と言わない。駐在組に対して、全部会社に出してもらって楽でしょ、と言わない。永住組に対して、変わった人が多い、と決めつけない。

どの人生にも、選択、制約、痛み、努力があります。

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海外へ出た人を、他の国ではどう見ているのか

ここまで、日本社会において、海外に出た新移民がなぜ複雑な視線を向けられやすいのかを考えてきました。では、この現象は日本だけのものなのでしょうか。

国際色豊かなアメリカや、何千年ものあいだ人が出たり入ったりしてきたヨーロッパの国々では、「自国から海外へ出た人」はどのように見られているのでしょうか。

海外へ出た人に対する複雑な感情は、日本だけにあるものではありません。多くの国で、自国を離れた人に対して、

成功者として誇る
祖国との橋渡し役として期待する
送金や国際ネットワークの担い手として重視する
一方で、祖国を捨てた人、頭脳流出、逃げた人、裏切り者のように見る

という両義的な感情が存在します。

ディアスポラ研究では、母国を離れた人々は、単に「出て行った人」ではなく、母国と移住先の間に文化的・経済的・政治的なつながりを作る存在として研究されています。University of Marylandの報告書では、ディアスポラを、出身地の外に住みながら、出身国や homeland との何らかのつながりを保つ人々として定義し、そうした集団が母国・移住先双方の政治や社会に影響を与えることを説明しています。

しかし同時に、ディアスポラは常に肯定的に見られるわけではありません。

Diaspora and Transnationalism の研究では、国外に住む人々が「祖国を捨てた裏切り者」のように表象される場合があること、また一方で、文化や言語の資源として国家に利用される場合もあることが述べられています。

つまり、海外に出た人への視線は、どの国でも一枚岩ではありません。

出た人を誇るのか。
損失と見るのか。
裏切りと見るのか。
国家の資源と見るのか。
個人の自由な移動と見るのか。

これは、その国の歴史、経済状況、国民意識、移民経験、政治的言説、メディアの描き方によって変わります。

アメリカでは「出ること」そのものが建国神話に近い

アメリカの場合、「自国から出て行った人」に対する見方を考える時、少し特殊です。なぜなら、アメリカという国自体が、ヨーロッパ、アフリカ、アジア、ラテンアメリカ、中東など、さまざまな地域から来た人々によって作られてきた国だからです。もちろん、先住民の土地の奪取、奴隷制、移民排斥、人種差別という深刻な歴史を抜きにして「移民の国」と美化することはできません。それでも、アメリカの国家神話の中には、「別の場所から来て、新しい人生を作る」という物語があります。

古い世界を離れる。
宗教的自由を求める。
貧困や身分制から逃れる。
新しい土地で働く。
自分の力で生活を築く。
親の国とは違う場所で子どもを育てる。

このような「移動して人生を作り直すこと」は、アメリカでは比較的ポジティブに語られやすい面があります。これは、Albert O. Hirschmanの Exit, Voice, and Loyalty の枠組みで考えるとわかりやすいです。Hirschmanは、組織や国家に不満がある時、人は内部で声を上げる voice か、そこから離れる exit という選択を取ると考えました。移民は、社会に対する不満や機会不足に対する exit として解釈できます。

アメリカの文化では、この exit が比較的肯定的に語られやすい。

家族の国を出たこと。
地元を出たこと。
州を移動したこと。
仕事を変えたこと。
宗教共同体を離れたこと。
新しいキャリアを作ったこと。

こうした移動は、裏切りよりも「挑戦」「自由」「自己決定」として理解されやすい面があります。もちろん、アメリカにも「地元を捨てた」「家族を置いて行った」「コミュニティに忠誠がない」という感情はあります。しかし、日本と比べると、移動そのものが人生の正当な選択として認められやすい文化的土台があるように思います。

ヨーロッパでは、国によって「出ること」の意味が違う

ヨーロッパは、人が出たり入ったりしてきた歴史が非常に長い地域です。戦争、宗教対立、帝国、植民地、国境変更、民族移動、労働移民、EU域内移動、難民、留学、専門職移民など、移動の理由は多様です。そのため、ヨーロッパ全体を一つにまとめることはできません。

イギリス、アイルランド、ポーランド、イタリア、ドイツ、フランス、スペイン、バルカン諸国、北欧、東欧では、移民と出国の歴史がまったく違います。

たとえば、アイルランドのように、大量移民が国民史の一部になっている国では、海外に出た人々は「失われた民」であると同時に、祖国との強い絆を持つディアスポラとして語られます。アイルランドのディアスポラ研究では、出国、喪失、亡命、遠距離ナショナリズムが、独立運動や国民意識と結びついていたことが論じられています。

一方、ポーランドや東欧の一部では、EU加盟後の若者や高学歴層の流出が「頭脳流出」として問題化されることがあります。ポーランドからドイツなどへの移動は、失業、経済変化、体制転換後の社会状況と関係しており、特に1989年から1990年代にかけて brain drain が問題になったとする研究があります。

このような国では、海外へ出た人は、

頑張っている人
送金してくれる人
国際経験を持つ人
しかし同時に、国内に残るべき若者や人材が出て行った存在として見られることがあります。

ヨーロッパでは、国によっては「出て行く人」に対して、日本と似た複雑な感情が生まれる場合があります。ただし、日本と違うのは、多くの国で「人が出ること」が長い歴史の中に組み込まれている点です。移民は特殊な出来事ではなく、家族史や地域史の中に普通に存在することが多い。悲しみや不満はあっても、「出て行くこと」自体が日本ほど強く異質化されない場合もあります。

中欧・東欧では「頭脳流出」と「残された社会」の痛みがある

中欧・東欧の国々では、海外に出る若者や専門職に対して、複雑な視線が向けられることがあります。

特に、医師、看護師、研究者、技術者、若い労働者が西欧へ移る場合、国内では「国を支える人材がいなくなる」という不安が生まれます。

brain drain、頭脳流出という言葉は、もともと高学歴・専門職人材がより豊かな国へ移ることを、送り出し国側の損失として捉える概念です。Alejandro Portesは、専門職・技術者の移動が、教育投資をした送り出し国にとって人的資本の損失として問題化されてきたことを整理しています。ここでは、海外に出た人への批判は、個人的嫉妬だけではありません。社会全体の不安と結びついています。

医師が出て行くと、地方医療が弱くなる。
若者が出て行くと、人口減少が進む。
教育を受けた人が出て行くと、国の将来が心配になる。
税金で教育した人材が他国で働くことへの不満が出る。

こうした不安が、出て行った人への複雑な視線を作ります。これは、日本にも一部重なる可能性があります。日本でも、若い人や能力のある人が海外へ出ると、「日本の中で頑張ってほしかった」「日本に還元しないのか」という感情が出ることがあります。ですが、日本の場合は、人口流出への政策的危機感よりも、「集団から外れた人」への文化的な違和感の方が強く出やすい印象があります。

中東・アフリカ・南アジアでは「出稼ぎ」「送金」「成功」として見られる場合もある

一方、中東、アフリカ、南アジアの多くの地域では、海外移住は家族や地域の生存戦略として非常に重要です。国や地域によって事情は違いますが、海外で働き、送金することは、家族を支える重要な行為として肯定的に見られることがありますが、移民研究では、移民が母国へ送る送金、remittances は、家計、教育、住宅、医療、地域経済に大きな影響を与えるものとして扱われます。

こうした社会では、海外に出ることは「家族を捨てる」よりも、「家族のために出る」と見られやすい。出国は個人の自己実現だけではなく、家族全体のプロジェクトです。もちろん、そこにも痛みはあります。

親と子が離れる。
夫婦が離れる。
子どもの養育を祖父母が担う。
移民労働者が搾取される。
帰国できなくなる。
海外で差別を受ける。

しかし、社会的な評価としては、「海外で働く人」は家族や村を支える存在として尊重される場合があります。日本の場合、海外移住が家族全体の経済戦略として見られることは、現代では比較的少ないように思います。むしろ、個人の選択、自己実現、結婚、留学、仕事として見られることが多い。ですので、周囲から「自分だけのために出た」と解釈されやすい面があるのかもしれません。

日本の「出て行った」感覚は、島国性だけでは説明できない

日本の場合、海外へ出た人に対して「出て行った」という感覚がネガティブに働くことがあります。この背景を、単に「島国だから」と説明するのは簡単ですが、それだけでは不十分です。日本にも、歴史的には移民があり、ハワイ、北米、南米、満洲、東南アジアなど、日本人はさまざまな地域へ移動してきました。

しかし、戦後の日本社会では、長く「日本で生まれ、日本で教育を受け、日本で働き、日本で家庭を持つ」という人生モデルが標準化されました。高度経済成長期以降、日本国内で生活が完結できる社会が作られたことで、海外へ出ることは、多くの人にとって「特殊な選択」になりました。さらに、日本社会には、同調圧力、世間体、内と外、集団内の調和、迷惑をかけないことを重視する文化があります。

その中で海外へ出る人は、次のように見られやすくなります。

日本の枠から外れた人。
日本では満足できなかった人。
日本を批判する人。
日本の集団から距離を取った人。
自分だけ自由を選んだ人。

ここに、感情的な摩擦が生まれます。日本では「出ること」が、アメリカのような挑戦の物語にも、アイルランドのような国民的ディアスポラの物語にも、南アジアやアフリカのような家族の経済戦略にも、うまく位置づけられていないことがあります。そのため、海外新移民は、日本社会の中で意味づけが不安定な存在になりやすいのです。

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なぜ「出て行く人」への攻撃は起きるのか

Hirschmanの Exit, Voice, Loyalty で考える

ここで、Albert O. Hirschmanの Exit, Voice, and Loyalty を使うと、かなり整理しやすくなります。Hirschmanは、組織や社会に不満がある時、人は主に二つの反応を取ると考えました。一つは voice、つまり内部で声を上げること。もう一つは exit、つまりそこから離れることです。

日本社会に息苦しさを感じた人が海外へ出ることは、一つの exit です。その人は、日本社会の中で声を上げ続けるのではなく、別の環境へ移ることで自分を守った。ところが、残った人から見ると、この exit は複雑に見えます。

なぜ中で変えようとしなかったのか。
なぜ外に出たのか。
自分たちはまだここにいるのに。
出た人が外から批判するのはずるい。
出た人が幸せそうだと、自分たちの我慢が否定された気がする。

ここに、残った人の痛みがあります。一方、出た人から見ると、こう感じることもあります。

中で声を上げても変わらなかった。
声を上げると潰された。
自分を守るには出るしかなかった。
出たからこそ、やっと息ができた。
外から見て初めて、あの息苦しさが構造だったとわかった。

この二つの視点は、どちらも現実です。だからこそ、出て行った人と残った人の間には、単なる意見の違いではなく、経験の違いから来る断絶が生まれます。

「出た人」は、残った社会の問題を可視化してしまう

海外に出た人は、残った社会にとって、時に不快な鏡になります。なぜなら、その人の存在が、暗黙の問いを突きつけるからです。

なぜこの人は出たのか。
日本社会に何が足りなかったのか。
なぜこの人は外で息がしやすくなったのか。
なぜ国内では、この人の能力や個性を活かせなかったのか。
なぜ日本にいる時、この人は苦しかったのか。

本来ならこれは社会にとって重要な問いです。しかし、集団は必ずしも内省を好みません。社会心理学的には、集団は自分たちの正しさや一貫性を守ろうとします。TajfelとTurnerの社会的アイデンティティ理論では、人は所属集団を肯定的に見ようとし、その集団への批判や離脱が自己評価にも影響すると考えられます。

つまり、日本社会の中で暮らす人にとって、「日本を出て楽になった人」の存在は、日本社会のあり方への批判として感じられることがある。

その時、社会ができる反応は二つあります。一つは、なぜ出たのかを考えること。もう一つは、出た人を否定することです。後者の方が、心理的には楽です。

出た人が変わっている。
出た人がわがまま。
出た人が日本を見下している。
出た人が海外かぶれ。
出た人がうまくいかなかっただけ。

こう言えば、社会の側は自分を変えなくて済みます。

ここに、攻撃のメカニズムがあります。

僻みや攻撃は、しばしば「傷ついた誇り」から生まれる

日本では、海外に出た人に対して「僻み」や「目の敵」のような反応が出ることがあります。これを個人の性格の悪さとしてだけ見ると、問題の深さが見えません。むしろ、これは「傷ついた誇り」の問題として考えることができます。

日本は、安全で、清潔で、教育水準が高く、社会秩序があり、文化的にも豊かな国です。そのため、日本にいる人々は、「日本は良い国である」という自己理解を持ちやすい。もちろん、それ自体は悪いことではありません。しかし、その良い国から、あえて出て行く人がいる。しかも、その人が「外に出て楽になった」「日本は息苦しかった」と語る。これは、日本社会に残る人にとって、自分の誇りを傷つける言葉として聞こえることがあります。その時、内省ではなく防衛が起きる。

なぜ日本が息苦しかったのかを考えるより、出た人を攻撃する方が簡単です。これは、日本だけでなく、国家や地域、家族、学校、会社など、どの集団でも起きます。人は、自分の属する集団を批判されると、自分自身を批判されたように感じやすいのです。

集団が抑圧的であるほど、外へ出た人が目立つ

抑圧の強い集団では、外へ出た人は目立ちます。なぜなら、その人は「出られる」という可能性を示してしまうからです。学校でも、会社でも、家族でも、地域社会でも同じです。みんなが我慢している場所で、一人が出て行く。すると、残った人は不安になります。

自分も出られたのではないか。
自分はなぜ残っているのか。
自分の我慢は何だったのか。
あの人だけ自由になるのはずるい。
あの人は裏切ったのではないか。

こうした感情は、集団心理としてかなり普遍的です。

日本社会では、学校、会社、家庭、地域などで、長く「我慢すること」「合わせること」「空気を読むこと」が評価されてきました。

その中で、海外に出た人は、我慢しなかった人、合わせなかった人、別の場所を選んだ人に見えます。

本当は、その人も大きな苦労をしている。

しかし、残った人には「出た」という事実だけが見える。

だから、出た人が攻撃対象になりやすいのです。

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他国にも「出て行った人」をネガティブに見る文化はあるのか

理由は国によって違う

「出て行った人」をネガティブに見る文化や感情は、他の国にもあります。ただし、その理由は国によって違います。

経済的に厳しい国では、海外へ出た人は成功者として尊敬される一方で、国を支えるべき人材が流出したと見られることがあります。

政治的に緊張した国では、海外へ出た人は亡命者、反体制派、祖国批判者として扱われることがあります。民族意識が強い国では、海外へ出た人が文化を失うことを心配されます。人口減少が深刻な国では、若者の出国が国家の将来への不安として語られます。

つまり、海外へ出た人への反感は、日本だけではありません。しかし、日本の場合は、経済的な送金や政治亡命よりも、集団規範、同調圧力、内と外、世間体、標準的な人生コースから外れることへの警戒が強く関わっているように見えます。

頭脳流出として叩かれる国

一部の国では、海外へ出た人は「国の投資を受けて教育されたのに、他国で働く人」として批判されます。

特に医師、研究者、技術者、若者の流出が深刻な国では、出国者は個人の自由としてだけでなく、国家の損失として語られます。この場合、批判の中心は「裏切り」や「嫉妬」だけではなく、「国の未来が損なわれる」という不安です。

Portesが整理するように、brain drain は、送り出し国が教育資源を投じた人材がより豊かな国へ移ることで、人的資本が失われるという問題として長く議論されてきました。このタイプの国では、「海外へ出た人」は成功者でもあり、損失でもあります。祝福と不満が同時に向けられます。

亡命者や反体制派として疑われる国

政治的に緊張の強い国では、海外へ出た人は、単なる移民ではなく、政治的な存在として見られることがあります。国外で祖国を批判する人は、政府や国内世論から、反国家的、裏切り者、外部勢力に利用されている人として扱われる場合があります。

ディアスポラ研究では、国外にいる人々が母国政治に影響を与えること、また国家がディアスポラを資源として利用したり、時には疑ったりすることが論じられています。Roger Waldingerは、ディアスポラ政治や越境的な動員が、母国と移住先の双方に関わる複雑な政治現象であると整理しています。

日本の場合、現代の海外新移民が政治亡命者として扱われることは通常ありません。

しかし、「海外から日本を批判する人」に対して、感情的に「外に出たくせに」「日本の悪口を言うな」という反応が出る点では、軽い形のナショナルな防衛反応が起きていると見ることもできます。

文化を失う人として心配される国

移民が多い国では、海外へ出た人やその子どもが、言語や文化を失うことへの心配もあります。これは、批判というより、文化継承への不安です。

海外で生まれた子どもが母語を話さなくなる。
宗教行事をしなくなる。
祖父母と話せなくなる。
結婚相手が同じ文化圏ではなくなる。
祖国とのつながりが薄くなる。

このような不安は、多くのディアスポラにあります。日本人コミュニティでも、日本語継承、子どものアイデンティティ、日本の祖父母との関係、日本文化の伝え方は大きなテーマです。ただ、日本の場合は、文化継承への心配と、「日本から出たこと」への批判が混ざることがあります。

本来は、海外に出た人を批判するよりも、どうすれば海外にいても日本語や日本文化を豊かに継承できるかを考える方が建設的です。

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日本社会の課題は「出て行った人」を責めることではなく、なぜ出たのかを考えること

出て行く人は、社会の異常を知らせるセンサーでもある

海外へ出る人を、単にわがままな人、自由な人、海外かぶれの人として見るのは簡単です。しかし、社会学的に見ると、出て行く人は、社会の問題を知らせるセンサーでもあります。

なぜ若者が出るのか。
なぜ女性が出るのか。
なぜ研究者が出るのか。
なぜアーティストが出るのか。
なぜ子育て世代が出るのか。
なぜ日本で評価されなかった人が外で息を吹き返すのか。

これは、本来、社会が真剣に考えるべき問いです。移民を考える際には、push 要因と pull 要因の両方を見る必要があります。つまり、人を押し出す母国側の要因と、人を引き寄せる移住先側の要因です。移民研究では、経済機会、社会制度、政治的不安、教育、ネットワークなどが移動に影響する要因として扱われます。

日本から海外へ出る人についても、単に「海外に憧れたから」ではなく、日本社会の側の push 要因を見る必要があります。

働き方。
ジェンダー役割。
教育の硬さ。
年齢規範。
同調圧力。
閉塞感。
才能の評価されにくさ。
多様な生き方への不寛容。
子育てのしにくさ。
女性やマイノリティの息苦しさ。

これらを考えずに、出た人を叩くだけでは、社会は変わりません。

攻撃は、内省を避けるための近道になる

人は、自分の属する社会の問題を直視するのが苦手です。なぜなら、それは自分自身の生活、選択、我慢、所属への問いになるからです。海外に出た人が「日本は息苦しかった」と言う。その時、本当はこう考えることもできます。

どの部分が息苦しかったのか。
なぜその人は日本で力を発揮できなかったのか。
日本社会はどんな人を追い詰めているのか。
日本の学校や会社や家族観に改善点はないのか。

しかし、これを考えるのは大変です。

そこで、出た人を攻撃する方が簡単になります。

あの人が弱かった。
あの人が変わっていた。
あの人が日本を嫌っていただけ。
あの人は海外にかぶれた。
あの人は日本を見下している。

こうすれば、社会の側は変わらなくて済みます。

しかし、それでは同じ問題が続きます。

次の世代もまた、息苦しさを抱え、出て行く人が出ます。

そしてまた、出て行った人が叩かれる。

この循環は、とてももったいないと思います。

「出て行った人」を社会改善のヒントとして見る

本来、海外へ出た人は、日本社会にとって貴重な観察者です。日本で育ち、日本語で考え、日本の制度を知り、そのうえで海外社会を経験している。これは、比較文化の視点を持つ人です。

日本の良さも見える。
日本の弱さも見える。
海外の良さも見える。
海外の問題も見える。

日本社会は、こうした人々を「外から偉そうに言う人」として排除するのではなく、社会改善のヒントとして活かすことができます。

教育。
労働。
医療。
子育て。
移民政策。
多文化共生。
ジェンダー。
老後。
地域社会。
政治参加。

海外在住者の経験は、これらの分野で日本を相対化する材料になります。外に出た人を攻撃するより、なぜ出たのかを聞く。それだけで、日本社会は少し前向きになれるのではないでしょうか。

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日本のしんどさをどう言語化するか

日本社会の中で息苦しさを感じ、それでも外に出て生き直そうとした人にとっては、日本から向けられる冷笑や攻撃はかなり痛いものです。人間は、長く抑圧的な環境に置かれると、自分の不満を直接表現しにくくなる。

その不満は、社会を変える方向ではなく、目の前の弱い対象や逸脱した対象への攻撃として出ることがある。海外へ出た人は、標準ルートから外れ、かつ自由に見えるため、そうした感情の投影先になりやすい。

抑圧された集団は、横に攻撃が向かいやすい

社会や組織の中で、上に向かって声を上げにくい時、人々の不満は横や下に向かうことがあります。

会社に不満があっても、会社には言えない。
社会に不満があっても、政治には届かない。
家庭に不満があっても、親には言えない。
学校に不満があっても、教師や制度には言えない。

すると、怒りは別の対象に向かいます。

目立つ人。
違う生き方をしている人。
外に出た人。
弱い立場の人。
炎上しやすい人。
叩いてもよさそうな人。

これは、集団心理として珍しい現象ではありません。本来は制度や構造に向けるべき不満が、個人攻撃に変換されるのです。海外へ出た日本人は、この攻撃対象になりやすい。なぜなら、その人は「自分たちと同じ日本人でありながら、外へ出た人」だからです。

完全な外国人ではない。

でも、完全な内側の人でもない。

だから叩きやすい。

この微妙な位置が、海外新移民を攻撃対象にしやすくしているのではないかと思います。

ポジティブな社会変革に向かいにくい理由

「なぜ彼らは出ていくのかを内省したり、国をより良い方向へ変えようというポジティブなパワーが感じられない」という点も、とても重要です。これは、日本社会の政治文化とも関係します。日本では、不満があっても、デモ、署名、地域活動、政治参加、労働運動、市民活動として表現することに慣れていない人が多いです。

不満はある。

でも声を上げるのは怖い。

変わらないと思っている。

出る杭になるのは嫌だ。

政治的だと思われたくない。

すると、不満は社会変革ではなく、個人への批判やネット上の冷笑に向かいやすくなります。

本来なら、

なぜ若者が海外へ出るのか。
なぜ女性が海外で息をしやすくなるのか。
なぜ日本で評価されなかった人が外で活躍するのか。
なぜ研究者やアーティストが日本を離れるのか。

を考えるべきです。

しかし、それを考えるには、社会の側が自分を変える覚悟を持つ必要があります。それが難しい時、出て行った人を叩く方が簡単になる。この構図は、日本社会の大きな課題だと思います。

海外へ出ることは、裏切りではなく社会の診断結果でもある

海外へ出る人は、必ずしも祖国を捨てた人ではありません。「出て行った人」として責めるだけでは、何も見えてきません。むしろ、なぜその人たちは出たのかを考えることが大事です。海外新移民は、日本社会の失敗を責めるための存在ではありません。

彼らの移動は、日本社会のどこに息苦しさがあるのかを示すデータでもあります。

日本だけが特殊なのではないが、日本には日本特有のきつさがある

海外へ出た人に対する複雑な感情は、世界中にあります。アイルランドにも、ポーランドにも、東欧にも、中東にも、アフリカにも、南アジアにも、さまざまな形であります。

しかし、日本の場合は、

長く国内で完結できた社会
同調圧力の強さ
標準的な人生コースの強さ
内と外の意識
政治的に不満を表現しにくい文化
目立つ人や外へ出た人への冷笑
海外在住者の経験を社会的資源として活かす回路の弱さ

こうした要素が重なり、「出て行った人」への風当たりが独特の形で出やすいのではないかと思います。これは、日本人が本質的に意地悪だという話ではなく、抑圧された環境に長く置かれた人々が、自分の不満をうまく社会変革へ向けられず、身近な比較対象に向けてしまう構造の問題です。

だからこそ、必要なのは、個人を責めることではなく、構造を言語化することです。海外に出た人を責めるのではなく、なぜ出たのかを聞く。海外に出た人も、日本に残る人を見下すのではなく、なぜ残らざるを得ないのかを想像する。その両方が必要なのだと思います。

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まとめ

日本人はなぜ、海外に出た新移民に複雑な視線を向けることがあるのか。

それは、単純な嫉妬や意地悪だけでは説明できません。社会的アイデンティティ理論で見ると、海外在住日本人は、同じ日本人でありながら日本社会の外側にいる、内集団と外集団の境界に立つ存在です。そのため、親しみと違和感、誇りと警戒が同時に向けられやすくなります。

社会的比較理論で見ると、海外へ出た人は、日本に残った人にとって、自分が選ばなかった別の人生を可視化する存在です。上方比較は向上心を生む一方、自尊感情を脅かすことがあります。

相対的剥奪理論で見ると、海外在住者がより自由に、より自己実現しているように見える時、自分が相対的に不利だという感覚が生まれ、不満や怒りにつながることがあります。

ステレオタイプ内容モデルで見ると、海外在住者は有能だが暖かくない集団として見られることがあります。すごいけれど、好きではない。羨ましいけれど、認めたくない。このような混合感情が、冷ややかな視線として表れることがあります。

また、メディア論の視点から見ると、海外在住者は成功者、変わった人、日本を出た人、日本を外から批判する人としてフレーミングされやすい。Entmanのフレーミング理論、McCombsとShawのアジェンダ設定理論、Gerbnerの培養理論を踏まえると、メディアやSNSがどのように海外在住者を描くかは、社会の受け止め方に大きく影響します。

さらに、この構造は日本国内と海外在住者の間だけでなく、在外日本人同士にも起きます。駐在組、永住組、国際結婚組、留学組、現地採用組、研究者、起業家、アーティストなど、同じ在外日本人でも生活条件が違うため、互いに比較し、羨み、ラベルを貼ることがあります。

しかし、どの立場にも見える利点と見えない負担があります。駐在組には保障があるように見えて、会社都合で動く不自由があります。永住組には自由があるように見えて、すべてを自分で背負う不安があります。国際結婚組には現地基盤があるように見えて、文化差や法的問題、孤立の苦労があります。留学組には未来があるように見えて、ビザや就職の不安があります。現地採用組には自立があるように見えて、雇用や保険の不安定さがあります。海外新移民には、日本での暮らしに息苦しさや傷を持っている人も少なくありません。

その人たちの日本社会批判は、単なる悪口ではなく、自分がなぜ苦しかったのかを言語化する自己回復の過程であることがあります。一方、日本に残っている人も、日本社会の中で仕事、家庭、介護、子育て、将来不安を抱えながら生きています。どちらが正しいかではありません。

日本にいる人も、海外に出た人も、駐在組も、永住組も、留学組も、国際結婚組も、それぞれの場所で、それぞれの制約を抱えながら生きています。必要なのは、相手の人生をカテゴリーで判断することではなく、その背後にある見えない負担、選択、痛み、希望を想像することではないでしょうか。

海外新移民の存在は、日本社会を外から見る鏡です。

そして在外日本人同士の違いも、海外で生きる日本人の経験が一枚岩ではないことを教えてくれます。

その複雑さを、もう少し丁寧に語れるようになること。そこから、日本にいる人と海外にいる人、そして在外同士の間にも、もう少し穏やかな対話が生まれるのではないかと思います。

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参考理論・研究者・関連資料

社会的アイデンティティ理論
Henri Tajfel, John C. Turner
An Integrative Theory of Intergroup Conflict
内集団、外集団、集団所属と自己概念を考える理論

社会的比較理論
Leon Festinger
Social Comparison Theory
人が自分の能力や価値を他者との比較で評価するという理論

自己評価維持モデル
Abraham Tesser
Self-Evaluation Maintenance Model
近い他者の成功が自分の自己評価を脅かすことを説明する理論

相対的剥奪理論
W. G. Runciman
Heather J. Smith
Thomas F. Pettigrew
他者や基準との比較から生じる不公平感、怒り、憤りを説明する理論

ステレオタイプ内容モデル
Susan T. Fiske
Amy J. C. Cuddy
Peter Glick
Jun Xu
集団への評価が暖かさと有能さの二軸で形成されるという理論

フレーミング理論
Robert M. Entman
Framing: Toward Clarification of a Fractured Paradigm
メディアが現実の一部を選択し、目立たせ、問題定義や道徳評価を方向づけるという理論

アジェンダ設定理論
Maxwell E. McCombs
Donald L. Shaw
The Agenda-Setting Function of Mass Media
メディアが人々に何を考えるかではなく、何について考えるかを方向づけるという理論

培養理論
George Gerbner
Cultivation Theory
長期的なメディア接触が人々の社会現実認識を形成するという理論

沈黙の螺旋
Elisabeth Noelle-Neumann
The Spiral of Silence
人は自分の意見が少数派だと感じるほど孤立を恐れて沈黙しやすいという理論

海外在留邦人数調査統計
外務省
現代の海外在留邦人数を把握するための基礎資料

米文化
この記事の著者
Kyoko Bartley

ニュージャージー在住。
幼少期からアメリカの映画やアニメーション、音楽に親しみ、大学ではアメリカ文化を専攻。留学・研究を経て2011年に渡米し、国際結婚、妊娠・出産、現地就職、住宅購入などを通して、外国人としてアメリカ社会で暮らすリアルを経験してきた。

2018年より、在米日本人向けアメリカ生活情報ブログ「なんだろなアメリカ」 を運営。教科書やガイドブックには載らない、実体験にもとづく生活情報や、文化の違いから生まれる「?」を「!」に変える視点を発信している。

また、プリンストンエリアを拠点に画家としても活動し、原画やグッズの制作・販売を行っている。

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