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自由の国アメリカで考える「自由」と「自分勝手」の違い 考察

米文化
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自由とは「好き勝手にすること」なのか

こんにちは、なんだろなアメリカのキョウコ@NandaroAmericaです。

アメリカという国の理念には、外から来た人間として胸を打たれるものがあります。自由、人権、平等、個人の尊厳。これらを憲法や建国の理念として掲げ、国の根本に置こうとしたところに、アメリカという国の人工的で、理想主義的で、そして考え抜かれた強さがあると私は感じます。

特に、敗戦後の日本で生まれ育ち、戦後民主主義や平和教育の中で教育を受けてきた人間から見ると、アメリカの憲法的理念はとても力強く見えます。自由は人間に与えられた大切な権利であり、国家や権力がむやみに奪ってはならないものだという考え方には、深い説得力があります。

しかし、実際にアメリカで暮らしてみると、理念としての自由の美しさと、日常生活の中で見える「自由の使い方」の間には、大きな差があることにも気づきます。自由を、他者への配慮や責任を伴うものとして理解する人もいれば、単なる自分勝手、自己中心、わがまま、公共性の欠如として振る舞う人もいます。

私は、自由とは「何をしてもいい」という意味ではないと思います。自由とは、自分の権利を大切にしながら、他者の権利も同じように尊重することです。自分が自由に生きたいなら、他人も安全に、尊厳を持って、安心して生きる自由を持っていると理解することです。自由を自分勝手と取り違える態度は、アメリカの美しい理念そのものに泥を塗るものではないかと、私は外から来た一人の市民として感じます。

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自由は本来、責任と結びついている

第一に、アメリカの自由は、もともと責任と結びついているはずです。言論の自由、信仰の自由、集会の自由、自己決定の自由。これらは、人間が権力に支配されすぎず、自分の良心や考えに基づいて生きるための大切な権利です。

しかし、その自由は、他者を傷つける権利ではありません。自分の意見を言う自由があるからといって、他者を侮辱してよいわけではありません。自分の生活様式を選ぶ自由があるからといって、近隣や学校や公共空間で他人の安全や安心を壊してよいわけではありません。自分が好きなように振る舞う自由があるからといって、社会の中で最低限のマナーや思いやりを捨ててよいわけではありません。

本来の自由は、成熟した人間が使うと社会を豊かにします。多様な意見が交わされ、異なる背景を持つ人々が共存し、新しい価値が生まれます。しかし、未熟な人間が自由を「自分の好き勝手」と解釈すると、社会は荒れます。公共の場での振る舞い、学校での態度、運転、近所づきあい、オンラインでの言葉遣いなど、日常の小さな場面にその違いは表れます。

自由は、責任を理解している人にとっては尊厳の土台です。しかし、責任を理解しない人にとっては、ただの言い訳になります。

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教養やしつけの差が「自由の使い方」に表れる

第二に、私がアメリカで感じる文化的な衝撃の一つは、一般的な教養やしつけの差が、日本よりもかなり大きく見えることです。

これは、アメリカ人全体を批判したいという意味ではありません。アメリカには教養の深い人、公共心のある人、親切な人、非常に高い倫理観を持つ人がたくさんいます。むしろ、そういう人々に出会うたびに、アメリカの理想の強さを感じます。

ただ同時に、社会の中での振る舞い、他者への配慮、公共空間での態度、子どもへのしつけ、サービス業での対応、学校や地域でのマナーなどに、大きなばらつきを感じることがあります。

日本で育った私は、比較的安定した時代に、似通った価値観を持つ人々の中で育ちました。学校では集団生活、掃除、給食、係活動、家庭科、道徳、部活動などを通じて、良くも悪くも「人に迷惑をかけない」「周りを見る」「場を乱さない」という感覚を身につけてきました。その価値観には窮屈さもありますが、公共性を保つ力もあります。

一方、アメリカでは個人の自由がより強く尊重されます。その良さは確かにあります。人と違っていてもよい。自分の意見を持ってよい。自分の人生を自分で選んでよい。この感覚はとても健全です。

けれども、その自由の土台に、家庭教育、学校教育、公共心、倫理観が十分に育っていない場合、自由は簡単に「自分さえよければいい」という態度に崩れてしまいます。自由の国だからこそ、自由を使う人間の成熟度が問われるのだと思います。

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外から来た者だからこそ見える、理念と現実の落差

第三に、外から来た人間だからこそ、アメリカの理念の美しさと現実の落差がよく見えることがあります。

アメリカの憲法的理念は、非常に理想的です。人間の自由を守ろうとする意志があります。個人の権利を国家から守るという発想があります。多数派の圧力から少数派を守ろうとする考え方もあります。これは、歴史の中で多くの矛盾や苦しみを抱えながらも、なお掲げ続けられてきた大きな理想です。

だからこそ、その理念を日常の中で雑に扱う人を見ると、私は強い違和感を覚えます。

自由を主張するなら、他人の自由も尊重すべきです。権利を主張するなら、義務や責任も理解すべきです。平等を語るなら、自分と違う人を見下してはいけません。人権を掲げるなら、自分より弱い立場の人を雑に扱ってはいけません。

自由とは、社会の中で自分だけが大きな声を出すことではありません。自由とは、自分と異なる人々が同じ空間に存在できるように、自分の言動を調整する力でもあります。

外から来た者として、私はアメリカの理念に敬意を持っています。だからこそ、その理念を「自分勝手の免罪符」のように使う態度には違和感があります。それはアメリカらしさではなく、アメリカの理想を理解していない態度なのではないかと思います。

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自由を守るには、他者を尊重する成熟が必要

アメリカは、自由を高らかに掲げる国です。その理念は美しく、力強く、外から来た私のような人間にも大きな感動を与えます。自由、人権、平等、個人の尊厳。これらを国の根本に置こうとする姿勢は、決して当たり前のものではなく、歴史の中で考え抜かれ、作られ、守られてきたものです。

しかし、自由は放置すれば自分勝手に変わります。自由は、教養、しつけ、公共心、責任感、他者への想像力と結びついて初めて、人間を豊かにするものになります。

日本で育った私は、アメリカの自由に感動すると同時に、自由の使い方を間違えているように見える場面にも多く出会いました。それは、私が日本の安定した文化的クラスターの中で育ったから感じる差なのかもしれません。それでも、自由を自分勝手と取り違える態度は、アメリカの素晴らしい理念を傷つけるものだと感じます。

自由とは、自分だけが好きに振る舞うことではありません。自由とは、自分も他者も尊重される社会を作るための責任ある権利です。

アメリカの本当の美しさは、ただ自由を叫ぶことではなく、その自由をどう成熟して使うかにあるのではないでしょうか。

米文化
この記事の著者
Kyoko Bartley

ニュージャージー在住。
幼少期からアメリカの映画やアニメーション、音楽に親しみ、大学ではアメリカ文化を専攻。留学・研究を経て2011年に渡米し、国際結婚、妊娠・出産、現地就職、住宅購入などを通して、外国人としてアメリカ社会で暮らすリアルを経験してきた。

2018年より、在米日本人向けアメリカ生活情報ブログ「なんだろなアメリカ」 を運営。教科書やガイドブックには載らない、実体験にもとづく生活情報や、文化の違いから生まれる「?」を「!」に変える視点を発信している。

また、プリンストンエリアを拠点に画家としても活動し、原画やグッズの制作・販売を行っている。

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