エリス島国立移民博物館 情報
Ellis Island National Museum of Immigration(エリス島移民国立博物館)
※管轄はNational Park Service(アメリカ国立公園局)
公式ホームページ
国立公園 https://www.nps.gov/elis/index.htm
自由の女神とエリス島財団 https://www.statueofliberty.org/ellis-island/overview-history/
電話番号
+1‑212‑363‑3200(National Park Service/エリス島に関する一般問い合わせ)
入場料金
営業時間
通常は毎日午前9時~午後5時(季節により変動あり)
フェリーは最終便が午後3時半ごろ出発することが多いため、帰りの時間に注意が必要です。
冬季や祝祭日は閉館日や運航制限があるため、事前の公式サイト確認が推奨されます。
所在地(Google Mapsリンク)
https://maps.app.goo.gl/z8vUM5ye9MPEbSVd7
アクセス
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ニューヨーク市Battery Parkまたはニュージャージー州Liberty State Park(リバティー・ステート・パーク)
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フェリーは「Statue Cruises」が運航。自由の女神像(リバティ島)とのセット運航便も多く提供されています。
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バッテリー・パークから徒歩圏内ではないため、地下鉄A/C線で南端の「South Ferry」駅または1号線の「South Ferry」駅下車、徒歩10~15分です。
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駐車場があるリバティー・ステート・パークからは車でのアクセスが便利。駐車場の混雑やイベント開催時は混み合う場合があります。
- エリス島への訪問は、アメリカの歴史と文化に触れる素晴らしいチャンスです。事前に公式サイトで確認してから楽しんでくださいね。夏休みや連休、週末は混雑しますので数週間前からチケットをチェックしましょう。
自由の女神とエリス島はニューヨーク?ニュージャージー?
自由の女神は「ニューヨークハーバーにある」、「ニューヨークにある」、「ハドソン川にある」、などでが正解とされているのですが、実はニュージャージーにあると答えても間違いではありません。(本当は常識的にニューヨークって答えるでしょうけど。)
しかし、エリス島に関しては色々なサイトで「ニューヨークにあると思うだろうけどニュージャージーなのである」との主張を散見します。(笑)地図で調べたら水上でしたがニュージャージーとニューヨーク半々の住所で登録されていました。

ニュージャージー側から船で行きました。
エリス島とはどんな場所だったのか
アメリカ合衆国の玄関口として、かつて数え切れないほどの移民たちが夢を胸に通り抜けた場所——それがエリス島です。ニューヨーク湾に浮かぶこの小さな島は、19世紀後半から20世紀半ばにかけておよそ1,200万人もの移民が新たな人生を始める第一歩を踏み出した、まさに“希望の島”でした。
現在では「Ellis Island National Museum of Immigration」として生まれ変わり、移民の歴史やアメリカの多様性を伝える重要な文化施設となっています。
エリス島の歴史
1892年1月1日、この地に「エリス島連邦移民審査センター(Ellis Island Federal Immigration Station)」が開設されてから、1954年に閉鎖されるまで、約1,200万人もの人々がここを経由して新天地アメリカに足を踏み入れました。まさにエリス島は、合衆国が“移民の国”として成り立ってきたことを象徴する重要な歴史遺産なのです。
エリス島が開設された1892年当時、ヨーロッパや世界各地から数百万の移民がアメリカを目指して大西洋を越えてきました。その背景には、母国での貧困・差別・迫害からの脱出、新たな仕事や自由な生活を求めての旅立ちなど、さまざまな理由がありました。蒸気船で数週間の航海を経て到着した移民たちは、エリス島に上陸し、建物内の広大な「グレートホール(Great Hall)」で健康診断や法的な入国審査を受けました。
希望の島 涙の島
厳しい審査や検疫を通過できれば、晴れて「アメリカンドリーム」の入り口へと進むことができましたが、わずか数%の人々は病気や規定違反などの理由でアメリカ入国を拒否され、母国へ送り返されることもありました。
このため、エリス島は「希望の島(The Island of Hope)」と同時に「涙の島(The Island of Tears)」とも呼ばれるようになります。ここには移民たちの希望と不安、期待と絶望が複雑に交差する、人間ドラマの舞台でもありました。

船がエリス島に近づきます。アメリカという国に賛同する方は感動するところです。
エリス島は1954年まで移民審査施設として機能し、その間アメリカ国内の人口構成に計り知れない影響を与えました。特に19世紀末から20世紀初頭の“移民ラッシュ”時代には、一日に数千人の移民が押し寄せ、最大で5,000人もの人々が同時にこの島で審査を待っていたと記録されています。
放置され廃墟となったがその後博物館としてオープン
審査センターが閉鎖された後、エリス島はしばらくの間廃墟と化していました。しかし、アメリカ国内外からの保存を求める声や、アメリカ移民の歴史を再評価しようという機運の高まりを受けて、島の大規模な修復プロジェクトが開始されました。そして1990年、元の施設を大規模にリノベーションし、「Ellis Island National Museum of Immigration」として博物館が再オープンしました。
博物館では、移民の歴史を伝える多数の展示や映像資料、個々人の物語や写真、実際に使われていた審査場やグレートホールなどが一般公開されています。自分の先祖がこの地を通過したかどうか、データベース検索も体験でき、訪れる誰もが“アメリカのルーツ”に触れられる場所となっています。
“希望の島”として夢を叶えた人々の歓喜と、“涙の島”として別れや失望を味わった人々の悲哀。そのすべてが刻まれたエリス島は、今もアメリカという国の多様性と希望、苦難と克服の歴史を静かに語り続けています。
なぜ人々はアメリカを目指したのかー移民の歴史
アメリカに渡った移民たちには、それぞれ切実な理由がありました。19世紀後半から20世紀初頭、エリス島を通じてアメリカへとやってきた多くの人々は、「経済的機会」を求めて新天地を目指していました。出身地のヨーロッパや中東、アフリカなどでは、産業革命や農業の機械化による失業、貧困、飢饉などで生活が困窮し、家族の明日を案じる者が後を絶ちませんでした。
「アメリカンドリーム」という言葉が生まれるほど、アメリカは“成功すれば誰でも豊かになれる”という希望の象徴であり、多くの人が苦しい生活から抜け出す道をアメリカに託したのです。
また、「宗教的迫害」や「政治的な混乱」から逃れるために移民した人々も大勢いました。たとえば、東欧のユダヤ人たちはポグロム(ユダヤ人迫害)から逃れるために一家で渡米するケースが多く、ロシアやイタリア、アイルランドなども内戦や革命、宗教対立で国を追われる人々が後を絶ちませんでした。こうした移民は、新しい土地に希望を託しながらも、言葉も通じず、頼れる親族もいない異国の地で生活基盤を築く必要があり、日々苦労が絶えませんでした。
移民の歴史と差別の歴史
一方で、アメリカ政府は一定の時期から移民に対する制度的な排斥政策を強化しました。とくに1882年のチャイニーズ・エクスクルージョン・アクト(中国人排斥法)は、中国人労働者の移民を厳しく制限し、特定の民族や出身国に対する差別が公然と制度化されることとなりました。
ほかにも、移民の健康状態や資産、識字率を調べる審査が厳格化されるなど、“理想的な”移民以外は受け入れない方向へとシフトしていきます。
それでも多くの移民たちは「母なる自由の女神」に迎えられることで、“ようこそ、あなたたちの自由の国へ”というメッセージを感じ取りました。マンハッタンの沖合にある自由の女神像は、祖国で虐げられてきた人々や、貧困に喘いでいた家族にとって、まさに“新しい人生”のシンボルだったのです。長い船旅の末に女神像の姿を見た瞬間、涙を流し、両手を合わせて感謝の祈りを捧げたという移民たちの記録も数多く残されています。新たな生活が待つアメリカで、彼らは困難を乗り越え、次世代へと希望をつなぐことになったのです。

自由の女神は右手に松明を持ち、足には壊れた足枷、左手には独立宣言を抱えています。フランスからの贈り物です。
自由の女神とエリス島、移民たちを結ぶ文化的象徴と「The New Colossus」
ニューヨーク港に立つ自由の女神(Statue of Liberty)は、単なる巨大な像ではありません。アメリカへ向かった移民たちにとって、女神像は希望、自由、そして新たな人生の象徴でした。その文化的意味をより鮮やかに浮き彫りにしたのが、エマ・ラザラス(Emma Lazarus)の詩「The New Colossus(新しい巨人)」です。この詩は、アメリカと移民、そして自由の女神をめぐる物語に深い陰影と普遍的なメッセージを与えてきました。
エマ・ラザラスの生涯と「The New Colossus」
エマ・ラザラスは1849年、ニューヨークのユダヤ系家庭に生まれました。詩作と翻訳に早くから才能を発揮し、社会活動家としても知られていました。当時、東欧やロシアから逃れてくるユダヤ人移民たちが多く、ラザラスは彼らの苦境や人種差別の現実に胸を痛め、自ら支援活動にも積極的に取り組みました。
1883年、フランスからアメリカへ自由の女神像(正式名:Liberty Enlightening the World)が贈られる際、建設費用の一部を募るため、詩のコンテストが開催されます。ここで生まれたのが「The New Colossus」です。この詩は、古代ギリシャのロドス島に立っていた太陽神像「コロッサス」を引き合いに出し、征服や権力の象徴ではなく、疲れ果てた人々を温かく迎え入れる“新しい巨人=自由の女神”という対比で書かれています。
有名な最後の部分——
Give me your tired, your poor,
Your huddled masses yearning to breathe free,
The wretched refuse of your teeming shore.
Send these, the homeless, tempest-tossed to me,
I lift my lamp beside the golden door!
汝が疲れし者、貧しき者を我に与えよ、
自由の息を求め、群がり集ふ群衆をも。
溢るる岸辺に捨てられし不幸なる者らよ。
これら、家無き者、嵐に翻弄されし者らを我に遣わせよ。
我は黄金の門の傍らにて、我が灯を掲げん。
——は、世界中の移民たちの苦悩と希望を、アメリカが包み込む母性的なイメージで表現しています。
当初、この詩はさほど注目されませんでしたが、1903年、自由の女神像の台座に銘板として刻まれることとなり、女神像そのものの意味合いが大きく変わりました。もともと「独立記念のためのフランスからの贈り物」であった女神像が、“移民の希望”の象徴として世界的に知られるきっかけとなったのです。
女神像とエリス島——文化的な物語
19世紀末から20世紀初頭、ヨーロッパ・アジア・アフリカなど世界中からやってきた移民たちは、ニューヨーク港に到着すると最初にこの巨大な像を目にしました。その直後にたどり着くのがエリス島。長い航海と困難を乗り越えた人々にとって、女神像は「自由の国アメリカ」の“歓迎のシンボル”となりました。ある移民は「船上から女神像を見たとき涙があふれ、心が震えた」と記録に残しています。
エマ・ラザラスの詩が刻まれて以降、自由の女神像は“アメリカンドリーム”の門番的存在となり、「新しい人生を求める人々に開かれた黄金の扉」というイメージが浸透していきます。アメリカ社会は長らく“多様性の受け皿”として、自国の成り立ちや価値観をこの象徴に重ねてきました。
近年の論争と“自由の女神”の意味
しかし、アメリカの移民政策や社会情勢が大きく揺れる近年、この「女神像=移民歓迎」のイメージが、さまざまな形で論争を呼ぶこととなります。2017年、移民規制強化をめぐる政策転換の中で、当時の大統領補佐官スティーブン・ミラー(Stephen Miller)は「The New Colossusはアメリカの移民法の核心ではない」と主張し、エマ・ラザラスの詩と“アメリカの理念”との関係について物議を醸しました。
これに対し、歴代の国立公園局長や移民擁護団体、文化人らは「自由の女神像は、アメリカが多様な人々を歓迎してきた歴史と、その精神の象徴である」と強調。ドナルド・アコスタ元内務長官も含め、詩を“アメリカの心”とする声が広がりました。

この論争を通じ、自由の女神像とエマ・ラザラスの詩は、単なるモニュメントや装飾詩ではなく、アメリカが“どんな国であるべきか”という議論の中心に位置づけられています。女神像が掲げる松明は、今なお「困難を乗り越え、新たな土地で希望を持って生きたい」と願う世界中の人々に、時代を超えて強く語りかけています。
現代に生きる「The New Colossus」
「The New Colossus」は、現代でもさまざまな局面で引用され、アメリカの「移民国家」としての原点を問い直す材料となっています。貧困や迫害から逃れる移民・難民の受け入れを巡る議論、国境政策や市民権問題など、激動するアメリカ社会において、詩の一節は今も大きな意味を持っています。
SNSやニュースで、自由の女神像を背景に「Give me your tired, your poor…」の言葉が引用される光景は、もはや現代アメリカの“定番”とも言えるでしょう。この詩が刻まれたことで、女神像は永遠に“開かれたアメリカ”、多様性と寛容さを目指す国民の象徴として生き続けています。
自由の女神・エリス島の映画・文学への登場
映画や文学の中でも、エリス島と自由の女神はアメリカ移民史の象徴として幾度も描かれてきました。特に有名なのは、1986年のアニメ映画『アメリカ物語』(An American Tail)です。
ロシアからアメリカへ新天地を求めてやってきたユダヤ系ネズミの家族がエリス島で入国審査を受ける場面は、多くの移民が経験した“希望と不安の瞬間”を象徴的に描いています。映画では、「アメリカには猫はいない」という夢のような噂を信じ、移民たちが困難を乗り越えて新たな生活を始める姿が、子どもにも分かりやすく、かつ感動的に表現されています。そして、最後についに完成した自由の女神を背景に、西部の地平線の彼方を眺め、この先も、この先も、ずっとアメリカは続くんだよ、と物語は締め括られます。
こうした物語を通じて、エリス島や自由の女神は「アメリカンドリーム」の象徴として子どもたちにも深く記憶されてきました。歴史の事実だけでなく、祖先の物語や苦労、希望といった感情が物語の中で重なり、教育的意義の高い遺産となっています。
エリス島博物館の展示内容
エリス島の博物館は、アメリカの移民の歴史と体験に焦点を当てた展示を行っています。これには、移民の旅程、入国手続き、生活条件、家族の再統合など、移民が直面したさまざまな課題が含まれています。
移民の移動の苦労や来るまでに相当な決断を余儀なくされたであろうと感じる重い展示も多いです。

入管の建物跡が博物館になっています。エリス島のメインビルディングは、3階構成の展示ホールと特別展示エリアから成ります 。
エリス島で入国手続きをした人たちの出身地のデータは以下のようになっています。
- イタリア: 約400万人 (約30%)
- ドイツ: 約200万人 (約15%)
- アイルランド: 約100万人 (約8%)
- ロシア/ポーランド: 約100万人 (約8%)
- その他の国々からの移民: 約400万人 (約30%)
※合計が100%にならないですが、足りない数字の部分はその他の国々からの移民が含まれます。
なるほど、ニューヨーク、ニュージャージーにはイタリア系の人が非常に多いのはこんな内訳だったからですね。納得。
東のエリス島 西のエンジェルアイランド
エリス島の他にも、西海岸にあるサンフランシスコのエンジェルアイランド(Angel Island)が、太平洋経由で来るアジアからの移民が入国手続きを行うための主要な入国地点でした。
特に中国からの移民は、エンジェルアイランドにて厳重な検査を受けたことで有名です。エンジェルアイランドもエリス島と同様に、アメリカに入国する移民の歴史的な証拠を保存するための博物館として再利用されています。

エリス島やエンジェルアイランド以外にも、ボストン、フィラデルフィア、ボルチモアなどの大都市の港や入国地点でも一部の移民の入国手続きが行われましたが、数字的にはエリス島とエンジェルアイランドが大部分を占めます。
1階:バゲージルーム ~ 移民たちの最初の一歩
到着後、まず足を踏み入れるのがバゲージルーム。当時使用されていたトランクやスーツケースが展示されており、これから始まる新生活の緊張と期待が伝わります 。
同フロアにはPeopling of America Centerも。これは移民体験をアメリカ全体の歴史の中に位置づける大型常設展示で、先住民や植民地時代から現代までの多様な移民の歩みを解説しています 。
また、Kissing Postという再会の場には、離ればなれになっていた家族が初めて再会した感動の瞬間を感じ取ることができます 。

当時の写真がこうやって展示されていますが、どこの国の人も今の時代とは異なる顔つきというか、明らかに違う生活の背景が色々現れているんですよねえ。母国を離れて移民に来た人たちは、それぞれ何を思っていたのか、何かから逃れようとしていたのか、またはアメリカ側が非常に魅力を強く伝えるような広告をしていたのか、色々考えさせられます。


2階:審査の場とピーク時代の移民資料
2階の目玉はRegistry Room(Great Hall)。1892〜1924年の間実際に使われていた審査ホールで、当時そのまま再現されています。
同階にはHearing Roomがあり、ここは病気や貧困などで司法審査が行われた場面を再現。緊張感漂う空間が当時の検査過程を伝えます 。

さらに、移民ピーク期(1880〜1924)をテーマにした展示「Peak Immigration Years」では、当時の人口統計や移民の状況について深く掘り下げられています 。
入管審査が実際に行われたホール。

3階:故郷の宝「Treasures from Home」
3階には、移民が携えてきた祈りの書物や写真、人形、衣類などの「故郷の宝」が展示されています 。


アメリカの移民の歴史の政策について
移民の国としていつでも広く移民を受け入れるイメージのある米国ですが、アメリカの移民政策は時代と共に変化してきました。
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、アメリカは相対的に開放的な移民政策を採用し、多くの人々が自由を求めてアメリカに移住しました。
しかし、1920年代には移民制限法が制定され、移民の流入が制限されるようになりました。
18世紀および19世紀初頭
アメリカは植民地時代から移民によって(主にヨーロッパからの)成り立っていた国でしたが、独立後も移民政策は比較的自由でした。

1790年に制定された初の移民法である自然化法(Naturalization Act)では、アメリカに居住するための要件が定められましたが、移民の流入に対する制限はほとんどありませんでした。
19世紀前半
19世紀に入ると、アメリカの西部開拓が進み、新たな土地への入植が促進されました。この時期、米国政府は移民を西部へ誘導し、新しい領土を開拓するために移民を積極的に受け入れる政策を採用しました。人手=労働という色が非常に強かったわけですね。

19世紀中頃から後半
19世紀中頃から後半にかけて、米国は急速な工業化と経済成長を経験しました。この時期、アイルランドやドイツなどのヨーロッパ諸国からの移民が急増し、アメリカの労働力として重要な役割を果たしました。しかし、同時に移民の流入に対する反感や排外主義も高まりました。
19世紀にアイルランドやドイツからの移民が多かった理由は、それぞれの国で起こっていた経済的、政治的、および社会的要因によるところが大きいです。

アイルランドでは、19世紀初頭に大きな人口爆発が起こりました。同時に、アイルランドの農業は不況に見舞われ、ジャガイモ飢饉(Great Famine)として知られる大飢饉が1845年から1852年にかけて発生しました。この飢饉により、数百万人のアイルランド人が飢えや病気で死亡し、多くの人々がアイルランドを離れてアメリカなどの他国に移住しました。
ドイツ: ドイツでは、19世紀初頭から中頃にかけて、政治的不安定さや経済的困難が続いていました。ドイツは、ナポレオン戦争や1848年革命などの政治的動乱に見舞われ、多くの人々が不安定な情勢を逃れてアメリカに移住しました。また、工業化の進展により、農村部から都市への人口移動が進み、一部の人々はドイツ国外に移住することを選択しました。
以上の要因により、19世紀にはアイルランドとドイツからの移民が大量に米国に到着しました。彼らの多くは、新しい生活を求めてアメリカに移住し、労働力として貢献しました。
20世紀初頭: 20世紀初頭には、大規模な移民の波に直面しました。この時期、移民の流入が急増したため、米国政府は移民制限法の制定や移民の審査プロセスの強化など、より厳格な移民政策を導入しました。
1920年代: 1920年代には、アメリカでの移民の流入を制限するため、移民制限法が制定されました。これにより、移民の数が大幅に制限され、特にアジアからの移民に対する厳格な制限が導入されました。

自由の女神とチケットの種類について