嫌な経験の分析をしてみる
先ほどの「富裕層が多く住む高級住宅地は治安が良い」を裏返すと、「高級住宅地以外は治安が悪い要因をはらんでいる可能性があることを覚悟しておかなければいけない」ことになります。
しかし、あまりやたら滅多に不快な差別的経験に目くじらを立ててはいけないので、差別的経験に遭遇する「頻度」について述べるのは置いておいて、差別という問題の分析をしたいと思います。
差別する側の問題はなんなのか
今回は、「差別的な思想を持っていて、さらに実際に対象を見つけて堂々とそれを声に出す」人について考えてみようと思いますが、まず差別的思想は自分が理由はともあれ優位だと思い込んでいる人にあると言えるでしょう。
その優劣のつけ方が人種であったり文化であったりすることがまず「人種差別」になってしまうのですが、きちんと出来事を分解してはっきりさせたいと思います。
私の独自の考え方かもしれませんが、差別を見える形での行動にする人の内に孕む問題点は
- 個人の優劣を民族や文化や人種など偏見的な尺度で測り
- 自分自身はその偏った尺度での優位なグループに属すと思い込み
- それをいちいち自分より劣ると見込んだ対象者に目に見え、伝わる形で伝え
- 相手の気持ちを不快にしたり、
- 同等のサービスを受けられないようコントロールしたり、
- その他差別対象者の人権を侵害する対応をする
といった不平等の縮図があります。「自己賛美」「憎悪」「コントロール」「人権の侵害」「攻撃」など、実に偏って、さらに危険なものだと私は感じています。
ですので「差別」という人間の心に潜む現象一つの中に、かなり奥深い問題があると言えましょう。
差別された側の人間に何が起きるのか
「自分の属する人種や文化が優位であると、自分より劣ると思う対象にわざわざ言う」ことにすでに突出した攻撃性があるので、実際に「差別的な対応を受けた」被害者は、
- 差別者の勝手な差別的ものの見方による
- 攻撃的、挑発的態度を実際に取られたことにより
- 結果として、人権および個人の名誉を傷つけられた
という一連のコンボで被害を受けたと言えると思います。
さらに、例えば「アジア人だから(=その人の考える「優位」なグループでないから)」という勝手な理由でお金を払っているにも関わらず対価に見合うサービスを受けられなかった場合などは、「損失、被害」もあるわけです。
まとめ
長くなりましたが、いかがでしたか?アメリカで暮らすと、時間の経過とともに色々経験することがあり、悲しいかな差別的な考えを持つ人と遭遇することも(地域差はありますが)全くないとは言えません。
私はオハイオ時代に何度も嫌な思いを経験し、まだアメリカに来てから日も浅かったため、精神的ダメージや恐怖、悲しみを感じましたが、現在では少しは冷静に捉えられるようになってきました。
差別する人がいるかもしれないからといって、悲観的になることはありません。少しの心構えと、自分自身を強く持てば不当な出来事に屈さず対応ができます。
差別はされるのも嫌。なので自らの言動も見直してみて、まずは自分自身、そして自分の周りの人からハッピーにして行きたいものです。