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【アメリカミュージアム巡り】Ford’s Theater リンカーン大統領の暗殺されたフォードシアター ワシントンD.C.

文化

リンカーン大統領が1865年4月14日の夜に暗殺された、フォードシアター。現在は国立公園に指定されており、一般に公開されています。中には博物館も併設されていて、リンカーンがどのような人だったのかも学べるようになっています。

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Ford’s Theater リンカーン大統領の暗殺されたフォードシアター

こんにちはー。@NandaroAmericaです。

アメリカの博物館・美術館を巡るシリーズです。今回はワシントンD.C.にある Ford’s Theater (フォードシアター)です。

この場所はアメリカ合衆国の第16代大統領であるエイブラハム・リンカーンが暗殺された現場であり、事件後通りの向かいに運ばれ、そこで息を引き取りました。ワシントンD.C.には国立の無料施設・博物館・美術館がたくさんありますが、ここも絶対押さえておきたいし史跡スポットです。

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ワシントンD.C.のフォードシアター

ワシントンD.C.のフォードシアターは、アメリカ合衆国の歴史の中で暗い一ページを刻んだ場所として知られています。この劇場は、エイブラハム・リンカーン大統領が暗殺された場所として、今日でもその名が広く知られています。

FBIのすぐ近くです。

公式ホームページ https://fords.org/

入館には事前にチケットの購入が必要です。チケットは時間制で、行く日時を決めます。基本無料ですが、手数料がかかります。有料のガイドツアーも数種類あるので、入館の際にガイドツアーに参加したい方はオプションで。

現在でも現役の劇場なので、お芝居も公演しています。

フォードシアターの歴史と建設

フォードシアターは、1863年にジョン・T・フォードによって建設されました。この劇場は、当初は名声ある興行師であるフォードのために建設され、ワシントンD.C.のエンターテイメントの中心地として知られるようになりました。その華麗な建築や豪華な装飾は、当時のワシントンD.C.のランドマークの一つとなりました。

元々の劇場の建物

博物館の入り口はこちら

事件後、リンカーン大統領が搬送されて息を引き取った建物と資料館。

リンカーン大統領の暗殺

1865年4月14日の夜、リンカーン大統領はフォードシアターで公演を鑑賞していました。この時、俳優のジョン・ウィルクス・ブースがリンカーン大統領を射殺し、その後逃走しました。リンカーン大統領は翌日に亡くなりましたが、その暗殺はアメリカ史上に残る悲劇として知られています。

リンカーン大統領がフォードシアターで見ていた演目は、「Our American Cousin」でした。この演劇は、イギリスの劇作家トム・テイラーによって書かれ、アメリカで非常に人気がありました。

実際に劇場に入ることができます。レンジャーさんによる解説、質疑応答にも参加できるので、当時の様子を知りたい、質問などある方は話しかけてみましょう。

リンカーンが暗殺されたのは2階の右側、旗があるところ付近です。

リンカーン大統領の政治的立ち位置と功績

リンカーン大統領は、奴隷制度廃止のための奴隷解放宣言や南北戦争の指導など、アメリカ合衆国の歴史において極めて重要な役割を果たしました。

彼の政治的な立ち位置は、国家の統一と奴隷制度の廃止に向けた積極的な取り組みが特徴でした。犯人のジョン・ウィルクス・ブースがエイブラハム・リンカーン大統領を暗殺するに至った動機を理解するためには、アメリカの歴史と政治の情勢を詳しく見ていく必要があります。

奴隷制度と南北対立

19世紀半ばのアメリカでは、奴隷制度による南部と自由労働の北部との間での対立が激化していました。南部の経済は農業中心であり、奴隷労働に依存していましたが、北部は工業化が進み、自由労働の利益を重視していました。この対立は、奴隷制度の廃止をめぐる政治的論争として現れ、国内の緊張を高めました。

南北戦争

この南北の対立が最終的に南北戦争(1861年-1865年)として爆発しました。南部の州が奴隷制度を維持する権利を主張し、南部の連合国はアメリカ合衆国からの脱退を宣言しました。

これに対し、北部の連邦政府は国家の統一を維持するために戦いました。南北戦争はアメリカ史上最大の内戦であり、非常に多くの犠牲者を出す壮絶な戦闘が展開されました。

ちなみに現在でも南部と東北部の考え方は異なり、2016年からのトランプ大統領政権のもとではその意見の対立が顕になりました。これは実際に住んで体感しないと分かりづらいことかもしれませんが、アメリカのこういった地域の歴史の違い、考え方の違いを踏まえると、当時の統一という名目は成功はしておらず、そのままお互いの対立や価値観の違いを放棄したまま時が過ぎて来ている感じがします。

奴隷解放宣言

南北戦争中、リンカーン大統領は奴隷解放宣言を発し、南部の奴隷たちを解放することを宣言しました。これは戦争の目的を奴隷制度の廃止というよりも、国家の統一に置くことで、北部の戦争遂行の意欲を高めるために発せられました。

ブースの人物像と動機

ジョン・ウィルクス・ブースは、南北戦争中に南部の連合国を支持する政治的な立場を取っていました。彼の動機は復興期の政治状況に根ざしており、リンカーン大統領の南部に対する姿勢や奴隷制度の廃止に対する不満が暗殺の背景にありました。

使用した武器は、デリンジャーと呼ばれる小型の一発撃鉄式拳銃です。この銃は非常に小さく、隠し持ちや素早い使用に適していました。ブースはこのデリンジャーを使って、リンカーン大統領の後頭部に撃ち込んで殺害しました。

ブースの南部支持とリンカーンへの憎悪

ブースは南部の出身であり、南部の連合国を支持する政治的信念を持っていました。彼はリンカーン大統領の奴隷解放宣言や南部の敗北を憎み、南部の理想を擁護するために暗殺を実行したのです。

ブースは大統領を殺害後に逃走しましたが、12日後の1865年4月26日にバージニア州のガーロット農園で発見されました。連邦兵によって囲まれ、銃撃戦の末に重傷を負いました。彼はその傷がもとで翌日に亡くなりました。

ブースが裁かれることなく死亡したため、裁判は行われませんでした。

その後、ブースの共謀者とされる数人の男性は逮捕され、裁判にかけられました。彼らの中には、ブースと共にリンカーン大統領の暗殺を企てたとされる人物もいました。

フォードシアター向かいの建物でのリンカーンの死

フォードシアターの向かいにあるピーターセンハウスは、リンカーン大統領がブースによって射殺された後に運ばれ、最期を迎えた場所です。フォードシアターを見学すると、こちらも見学することができます。ガイドさんが順路を教えてくれるので、一緒に行って解説を聞くのがおすすめです。

もしリンカーンが生きていたら

もしリンカーンが暗殺されなかったら、南北戦争後の復興期はまた全然違ったものになったでしょうか。リンカーンは奴隷解放宣言を通じて奴隷制度の廃止を推進し、南部との和解を模索していました。彼が生きていたら南北間の対立が和解に向かう可能性がありました。

リンカーンの死後、副大統領のアンドリュー・ジョンソンが大統領に昇格しました。ジョンソンは民主党員でリンカーンの共和党とは異なる政治的立ち位置でした。

ジョンソンは南部の再統合を推進する一方で、連邦政府の権限を制限する方針を取りました。この復興政策は急進派共和党員との対立を引き起こし、議会でしばしば激しい論争が生じました。

ジョンソンは南部の元連合国の州に対して寛大な政策を採用し、早期の再統合を目指しました。しかし彼の政策は、奴隷解放やアフリカ系アメリカ人の権利を保護する観点から批判され、アメリカの政治的分裂を深めることになりました。

ジョンソンの任期は非常に論争的であり、ジョンソンの後、アメリカ合衆国大統領に就任したのは共和党のユリシーズ・S・グラントでした。グラントは南北戦争の将軍であり、リンカーンと同じ共和党の指導者として大統領に選出されました。

グラントの政策は、南部の再統合を促進するとともに、奴隷解放の達成を確立し、アフリカ系アメリカ人の権利を保護することに焦点を当てました。彼の政権下で、南部の復興が進み、アメリカ合衆国は統一された国として発展していきました。

しかしながら奴隷解放後、解放された黒人に対する金銭的な補償は一般的には行われませんでした。奴隷制度廃止に伴い、黒人たちは自由を手に入れましたが、多くが経済的に困窮していました。補償が行われた例としては、一部の地域で土地や資金の提供が行われたり、教育や社会的支援のプログラムが設立されたりしたことがありますが、それらの取り組みは全体から見たら非常に限られており、完全な補償とは言い難いものでした。

黒人は貧困や差別に直面し、さらに白人からの差別もあり、結果として社会的・経済的に不利な立場に置かれることが多かったのです。リンカーンが生きていた場合、彼はアフリカ系アメリカ人の権利の向上に引き続き取り組む可能性がありました。

リンカーンは、撃たれてからピーターセンハウスに運ばれ、4月15日の朝、家族や親しい友人たちに囲まれて息を引き取りました。

メアリー・トッド・リンカーン夫人も見守りました。夫人が仮眠に使ったベッドも保存されています。

リンカーンの棺

リンカーン大統領のお墓は、彼の出身地イリノイ州スプリングフィールドのオークリッジ墓地(Oak Ridge Cemetery)にあります。アメリカ合衆国の国定歴史地区に指定されています。

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