この記事は筆者が米国内に過去滞在した時の写真とともに当時を振り返るシリーズ、ロサンゼルスのリトルトーキョー2000年編です。思い出やハプニングなどいろいろ語ります。
ロサンゼルスのリトルトーキョー2000年頃の写真を紹介します
こんにちは、なんだろなアメリカにようこそ。キョウコ@NandaroAmericaでーす。
私が大学生だった2000年、それまでコツコツ勉強することが好きだった私は、いろいろ自分の疑問に思ったことをどうにか研究に活かせないかと、映像とテクノロジーと文化なんかをくっつけて個人研究していました。
ありがたいことに、大学の援助をいただいてアメリカの都市を訪れたりしたのですが、長い滞在の間、リトルトーキョーの日本語が、私の旅の間の緊張と孤独を和らげてくれたり、カリフォルニアでの日系人の重く悲しい歴史を知ることになったり、私のアメリカとの接点の中でもかなり大きなインパクトを与えた滞在でした。
この記事では、カリフォルニア滞在の中でもリトルトーキョーに滞在した数週間の間の写真を載せますねー。
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カリフォルニア・ロサンゼルス2000年
どーん。
当時の私のスペック:
- 日本でも運転免許持っていない。(このあと取ることになるんだけど)
- 英検準一級(気合いで乗り切った)だが経験が圧倒的に足りず会話や聞き取りが苦手でインタビューなんかはカセットレコーダーを常に携帯。(←時代)
- アメリカ文化を学んでいた。
- 映画を作ったりしていた。
- 人生4回目のアメリカで、3回目のロサンゼルス訪問。89年家族旅行、98年ホームステイ。
こんなうら若きキョウコさんがどんな経験をするのか…笑
若いからこその洗礼をアメリカで連日受けた
まずロサンゼルスに着き、連日いろいろなところをバスやタクシーや地下鉄で訪問して、緊張と英語の壁と自分の実力のなさを目の当たりにしつつ、研究のストレスと、来たからには楽しもうという、ネガティブとポジティブが入り混ざる日々を過ごしていました。
ハリウッドのスタジオ巡り滞在を終えて、ちょっと小休止で滞在したのがリトルトーキョー。
これは2000年なんだけど、私は実は1989年ごろと98年にも同じ場所に来ているのね。
89年の頃は日本がバブルで、観光客がものすごい勢いでロス、サンフランシスコに押し寄せていたのです。
我々もその時完全なるお上りさんだったのだけど、個人旅行(今と比べると高額だったんだけど)が気軽にできるようになり、また日本の景気がとても良かったため、西海岸のロス、グランドキャニオンらへんまでは大人気スポット。
ロス近郊にあるテーマパーク、ユニバーサルスタジオ、ディズニーランド、ナッツベリーファーム、UCLA、サンタモニカ、ハリウッド、ビバリーヒルズのロデオドライブ、そしてリトルトーキョー内の免税店は日本人観光客の鉄板だったのです。
親が言うには、あのバブルの頃は日本の旅行会社もリトルトーキョーに支店があって心強かった(親英語できないので)のと、日本から手頃な7泊5日ロサンゼルスツアーなどで行くと、バスでリトルトーキョーの免税店によって思い切りお買い物タイム&日本食・日本語に囲まれて初めての海外旅行でもホッとする時間がある、と言うのが良かったようです。
そうだよねー。英語できないけど行きたいし、行きたいけど怖いもんね。
大人気観光地だったはずなのに、人がいなかったリトルトーキョー
そういう観光雑誌を何冊もうちは買って、いく一ヶ月前からキョウコ少女は胸に夢を膨らませて毎日アメリカ、アメリカ、と言って過ごし、特にユニバーサルスタジオに連れて行ってもらってからは、あそこでバック・トゥ・ザ・フューチャー(ドクとマーティーが初恋)を撮影したのね、と悶絶し←まあ、当時のアメリカのポップカルチャー(日本輸出向けに限られている)に洗脳されて2000年まで生息して来ました。珍獣です。
1989年のロサンゼルスって、とてもカッコよくて、パワフルで、80年代のアメリカの元気さ、あどけなさが詰まっていたのね。ショートパンツのお姉さんやマッチョなお兄さんが目の前をローラースケートやスケボーで通り過ぎて行ったり、目があったらハーイ、なんて言ってくれる人もいて、さらにハリウッドやビバヒルの方に行けばリムジンなんか時々見かける。
子供の私には(11歳だったかな)ドギツかったけれど、私は最初のLAへの旅でアメリカと言うものに錯覚的な恋をしたのよね。
そのとっても濃い記憶が私の中で「これがアメリカだ」というイメージを作っていたのだけど、2000年にリトルトーキョーにきたらば、何か違うのよ。
がらーん。(写真右側の建物は、NYCでいう5番街みたいな、いい感じのお店が並ぶ免税店やおみやげ屋さんだったのです。)行ったことないけど、ハワイの免税店が並ぶエリアとちょっと似ていたかもしれないです。
98年に来た時は夜観光したのだけど、暗い中、ホームステイで知り合った大勢の大学の友達とガヤガヤ歩いていて、俺たちアメリカで輝いているぜ人生楽しいな!みたいな勢いで通り過ぎただけだったので、あまり様子がわからなかったのですが… (英語もわからんのだけど)
リトルトーキョーががらーーーーーーん。
89年に私はここで家族と、超羽振りの良かったギラッギラの親戚とゴッテゴテの写真を撮ったんだよ。みんな免税店のバッグ持ってね。
親戚も親も肩からバッグ提げて、私なんか赤いミッキーマウスのサングラスかけて、破いたジーンズ履いていて、ザ・ジャパニーズ観光客の典型、なんと言う痛ましい写真!というのが実家に残っています。
89年のリトルトーキョーは、歩いている人は多かったし、まさにこの通りの真ん中にいろいろ撮影用のぬいぐるみやアメリカンなグッズなどが置いてあって、記念写真をフィルム36枚撮り一本を15分で使い果たせそうなほど賑やかだったんだよ。買い物好きな親戚はお店を朝から午後まで見ていたよ。
と言う記憶に基づいてやってきたので、どうしたんだろう、このエリア…とビビりながら、果たしてここは安全なのか?と思い始める女の一人旅。
キョウコさんはまだ20代前半でした。←
ビビってはいるんだけど、まだ、アメリカでの危ないかもと思った時の対処を知らなかったというか…
一人で観光…治安がやや心配!
バカなので、まあ、そのまま観光でスペースシャトル・ディスカバーの事故で亡くなった日系の宇宙飛行士、オニヅカさんの碑の見学をしたよ。
一人さ。(よくやったな、と今思う。)
ちょっと歩くと営業しているレストランが数件あったから、ランチに行ったのさ。ああ、人がいた。サンクチュアリ。
日本語の手書きがネイティブで私は感動した。ああ、日本人の方がいるんだなあー。と。
みつるや、さんですね。あ、もちアイスってこの頃からあったのか。
価格的にはかなり安い方だと思うのだけど、地域差ありますね。
2011年に滞在したオハイオの中華レストランのランチはこれより$1、2ドルは安かった。地域と物価の差。アメリカは大きいと思う。
ドンキヨシを覚えてますか?
超裏ビでおなじみの←ドンキヨシさんだよ。
ツイッターですけちゃんさんに聞いたら、ああ、このあたりはもう最近は綺麗になっています、と教えてもらいました。うん。アメリカは超裏ビとか目抜き通りで売ったら、あかんよね。日本と違って、本当に裏でやって、って。
こういうのがあるところってなんとなくブレードランナーとかマイノリティ・レポートのダークな街みたいになってっちゃうから、観光地でこれはあかんな。
しかしこの写真10年前は超バブルで川越の菓子屋横町と秋葉原の免税店が合体したような雰囲気があったんだよ。(わかりづらい)10年でこんなにお店のメンツが変わるのね。
ドンキヨシは発見してからというもの、帰国しても三ヶ月くらい思い出しては笑い続けてたんだけど、マツモトさん的には何か対処されたのか、すごい気になる。
ファミマもさ、あるんだけど、どうもおにぎりや飲み物だけを売っている感じではなく、入店して、「らっしゃいあーせー、あざーしたー!」だけで出てこれるのかどうかわからん雰囲気だったので入らなかったな。
- ロゲイン
- リアップ
- 飲む育毛剤
- よびんびん←小◯製薬的なネーミングで焦る…
絶対、こういったお店、入るとレオンみたいな世界がな…。入れなかったねー。怖かったねー。「よびんびん」だもん…
キョウコさんは20代前半で…。(しつこい)
2000年なんだけど、なんか車が古めかしく見える。クインシージョーンズとかの音楽が合いそうな。
この左側にコンテンポラリーアートミュージアムがあって、そこでもお話ししたんだけど、この地域は激変していて、数年前とは全然違うとかいう会話をしました。
あまり外食もできないし、節約&健康のためにパン、シリアル、牛乳、果物を買ってしのいだ。
というか、どこでこれ買って来たのか記憶にないのだけど…。私、どうやって生きてたのかな。
地図で見ると今はニジヤがあるけど、そんなのなかったように思うし。研修先のお昼で生きていたかもしれない。ちなみにこの頃体重は57キロでした。戻りたい、戻りたい。
リトルトーキョーパレード2000年でコミュニティとはなんだろなと考える
とある日曜日、コインランドリーで洗濯をしてたらなにやら外がお祭りモードで
洗濯機の前で待ってなきゃいけないけど、もう諦めて外に出て楽しんだ。
これがアメリカのパレードかー!と感動。
この年のゲストは森進一さんで、日本人のおばちゃんたちが、もりさーーん!もりさぁああーん!と黄色い声を浴びせていました。彼女たち、森さんにアメリカで会えてどういう気持ちだったのかな、と考える。
祖国に帰りたいかな?いや、そうでもないかな?日本との精神距離が離れていく生活ってどんなかな、と若かった私はちょっと考えてみたけど、よくわからず。
そしてその10年後結婚してアメリカから出れなくなるんですけどね。←
一寸先は闇
リトルトーキョー夏祭り2000年 ミレニアムでございます。記念すべき年として大盛り上がりしていたよね、2000年。東京音頭が流れていたと思うよ。
みこしだわっしょい。
神主さんは完全にアメリカの方で、ああ、ここら辺って文化が両方混ざっているのねーと驚きましたね。
この地区のビューティークイーンとか、この辺りの区域の小・中・高校生の演奏や、経済に貢献している日系人の方の紹介フロートなどもあり、コミュニティを垣間見た気がしました。
アメリカの日系人の生活について考える
日本人が多いんだ、という印象以上に、雰囲気的に、ああ、日本人は現地に溶け込んでいる人たちと、日本にいずれ帰ってしまうとわかっていて溶け込まない人たちがいるのかな、と悟った瞬間でもありました。
本やテレビで勉強するだけでは感じ取れないよね、こういうの。
それで、持ち場を離れてしまった洗濯物は誰かに出されてしまって、やり直しましたね。アメリカあるある。
こんなの、本当に川越じゃん。
この向かいに、日系人の博物館があり、館長さんなどとお話しする機会が(一応研修で行ってるからね)ありました。
実は、私の祖先の一人が戦前から北カリフォルニアに移民に行ってて、戦後独身のまま、ちょっと不可解な亡くなり方をしているのです。そんなお話もしました。
日本からの移民の苦労と、アメリカ政府のスタンス、日本政府からのスタンス、色々と辛辣なお話を伺いました。往往にして、この国にはあるよ、あるんだ。非白人にはな。
だんだん目が覚めて来たキョウコさん。アメリカは決して自由でも平等でもない。ヒエラルキーをきちんと分解して見つめないと。表の面に騙されるなよ、とだんだん夢と魔法が剥がれて来ております。(とってもいいこと)
知らずに危険と言われる地域も歩いていた
夢と魔法といえば、リトルトーキョーからはちょっと離れてるけど地下鉄駅かユニオン駅まで歩くかバスかで行って、アナハイムまで行けるんです。
それで一人で念願のディズニーランドに日帰りで行ったのだけど、まあ、自動車社会だから、行って帰ってくる交通が大変だったことの方が記憶にありますね。車なら多分30分で行けるんだろうけど、バス、電車だと1時間、2時間かかるという。
↑大渋滞ですね。
で、後日、地図を見て、やっぱり歩けそうな距離だったら歩いた方が早いなと、浅はかだった私は結構色々歩き回っていました。あとで知人に「あの通り歩いちゃったの?!」と言われたり。
こう言う隙に事件は起きるんです!
テリヤキチキンサラダみたいな感じのものをいただきました。テイクアウトする能力はあったんだな。どこで買ったのか全然記憶にないのだけど。ひょっとして研修先でもらってきたのかな…。
こちらは安全な地域、東本願寺。
帰国しておばあちゃんに(おばあちゃんの父が元お坊さん)アメリカにも立派なお寺があるんだよと写真を見せたら、「んまぁー!」と拝んでいたよ。笑 純朴な家族です。
↓アムトラックで出かける用事があって、そこまで歩いちゃったんだよな。後からあの辺危ないよと言われたのだけど。事前に調べるべきですよね。
この後、2002年ごろかな、恩師にリトルトーキョーから日系人は離れているのではないかとお話ししたら、「それでいいのよ、日系人が世代が進むに連れて、自然とアメリカ社会に溶け込んでいるんだから、それでいいのよ。リトルトーキョーが観光地として盛り上がるビジネスの話とは違って、また別ステージになったってことよ」と教えていただき、ますますカリフォルニアの日系移民の歴史についてもっと学ばなきゃあかんなと思ったのでした。
日系移民の歴史は今後のお勉強テーマにします。
↑ユニオン駅まで歩いて(だからダメだって)、サンディエゴの知り合いを訪ねに行った際の写真ー。
サンディエゴの思い出写真もまた載せます。カリフォルニアは本当に美しいなぁ。こんな体験をさせてくれてありがとう。
まとめ
今思い起こすと近いようで遠くなってしまったカリフォルニアですが、2000年以降は私は西海岸へは行っていません。
ああ、どういう変化があったかなあ、とグーグルマップを見たりしていますが、この間の自分の軌跡を振り返るとなんともいえない感情になりますね。
叶ったこと、叶えられていないこと、色々あるけれど、時とともに前進するのみですので、文句を言わずに生きて生きたいなあと、最近思います。
2000年の夏、ロサンゼルス リトルトーキョー編でした。
またハリウッド編、バーバンク編、サンディエゴ編なども書きますねー。